そんな大層なものじゃない |刺し子とは②

インスタグラムで、刺し子についての想いや考えをお披露目するようになって、刺し子について深く考える機会が増えました。英語を原文で読んで下さっている方、または翻訳機能を通して読んで下さっている方は、「刺し子ってそんなに深いものなのか……」と感じて下さることもあるかもしれません。書いている私自身、よくここまで刺し子だけで話を続けることができるもんだ……と思うほどに、文章が途切れていません。

インスタグラムでの投稿は、ほとんどにおいて、英語で目にする刺し子に関する質問(情報や議論)がきっかけで書いています。残念ながら、英語での刺し子の議論では、ところどこで「なんだこりゃ」と思うことが多く、その違和感を解決する為に深く考え、そしてできるだけ論理的に表現するようにしています。なので、”結果的に”仰々しい書き方になってしまっているのです。

英語での長ったらしい文章を読んで下さっている方には、この文章は矛盾しているように思われるかもしれませんが、恵子さんも私も、刺し子に関して、一つの共通認識があります。それは、「刺し子は、そんなに大層なものじゃない」ということです。昔の日本人が当たり前に、当たり前の日常の中で培ってきた針仕事を総称として「刺し子」と読んでいると理解しています。それ以外の呼び方もきっとあったんだろうと思います。現代にその文献が残っていないだけの話しで。


日本人の当たり前が、世界の最先端

英語で刺し子を紹介する時、その文章を日本語でも紹介しなければ……と思っているのです。インスタグラム等で、文字数的にその余裕がない場合、申し訳ないと思っています。ただ、同時に、「こんなこと日本語で書くとこっ恥ずかしい」と微妙に躊躇してしまているのも事実なのです。それほど、私がインスタグラムで英語で表現していることは、日本に住み、日本語を使い、日本の風土習慣の中で生活している(してきた)私達には、当たり前のことな気がしているのです。


一例を紹介します。

「もったいない」という言葉。仏教用語から派生している言葉で、「もったいない」という単語以外に上手に表現する方法を持たない程、その単語一つで様々な物語が完結する言葉です。

この「もったいない」という単語を英語に訳す時、どうしても余分な(豊富な)エッセンスを削ぎ落としてしまい、「無駄にできない = Too good to waste」という英訳になってしまうことが多いのです。この英訳、間違ってはいません。しかしながら、「もったいない」という言葉の全体像を包括しているかと言うと、少し頭を抱えてしまうのです。

ここから日本文化(日本語)に理想を抱く方々の”解釈”が始まります。「ものを無駄にしない考え方」を、「究極のリサイクル」と考えるようになります。一般的に「リサイクル」という言葉は環境保護と綿密な関係があるので、結果的に、「(新しく布や糸を買うのではなく)今ある材料を使って作品を作ることが、”もったいない”精神であり、またそれが刺し子(襤褸)なのだ」という結論を、恥ずかしげもなく紹介する人が出てくるのです。

間違っていないのです。ただ……、日本人は「そんな素晴らしい古布に、そんな適当な糸で刺し子をして”もったいない”」という、環境保護以外の「もったいない」の許容範囲を持ち合わせているのです。日本人では当たり前の、この「もったいない」という感覚。これを紹介するために、何回も、何本もの記事を書いて紹介しなければなりません。

日本人にとっては当たり前のことが、世界ではまるで、「最先端」のように扱われることを、実際にアメリカに住むようになって肌で感じるようになりました。ただ、この「最先端」は、酸いも甘いも含めた全体像ではなく、「吸収したいものだけを見る」という文化的には少し捻りが加わった解釈でもあります。解釈そのものは悪くないのですが、一部の一方的な解釈に共感が集まりだすと、言葉が一人歩きを始めます。その結果、本来の日本語(例えば”刺し子”)が違う意味を持ってしまう可能性があるのです。それが怖い。この恐怖こそが、これだけインスタグラムに英語での文章を投稿し続ける原動力となって(しまって)いるのです。

幻想を抱かれてしまう可能性

西洋文化が当たり前の多くの「外国人」にとって、日本文化というのはとても神秘的に映ります。ましてや、その情報が限られているものである場合、限られた英語での紹介文(出版物)と、各々の解釈とで、自分なりの「Sashiko」というものを作られていきます。

各々の「自分なりの刺し子」を作って頂くことは、私が何よりも望んでいることなので、全く問題がないのですが、「理想ありき」の刺し子に、欲しい情報だけ読んで肉付けをしていくという、幻想を作り上げていく過程が、どうも怖いのです。言葉の一人歩きって、この幻想を抱いた人達が言葉に思いを乗っけるからこそ起こるんだと思うのです。

「刺し子は崇高なものだ」と幻想を抱かれてしまう可能性が一番怖い。もし万が一、刺し子がなにか特別なものになってしまった場合、それはもう既に「日本人が当たり前に行ってきた針仕事」という範疇を超えてしまい、唯一と言っていい程の定義が壊れてしまう可能性があると思っています。

吃驚する程に、英語では、刺し子に幻想を抱いている人がいます。商業的な観点からみたら、きっと大成功といえる様な現象だと思います。刺し子に憧れ、各々の刺し子を求める流れは、「刺し子を通して商売(利益をあげること)をしたい」人にとっては絶好の機会だと思うし、6年前の私であれば、この流れに乗らない手はないと思い、様々な投資をしたことと思います。

今現在は、目先の利益よりも、「刺し子をどう伝えていくか」ということに焦点を当てているので、どうもこの不自然な刺し子への幻想に違和感を抱いてしまうのです。違和感……というよりは、恐怖という言葉が一番近いかもしれませんが。

繰り返しになるのですが、「刺し子は大層なものじゃない」です。好きな形で刺し子をすれば良いし、既に存在する様々なタイプの刺し子のどれを楽しんでもらっても良いと思います。ただ、刺し子は「昔の日本人が(生活の中の必然性の中で)築き上げた手仕事文化」だということを、日本人も含め、多くの方に知っていただきたいな……と思うのです。日本中で誰もが行っていた針仕事だという事が周知されれば、「この柄は私のオリジナルだ!」ということは、とてつもなく勇気がいることでしょうし、「刺し子」を私物化しようとすることもないんだろうなと。

毎度思うのですが、やっぱり刺し子とお味噌汁の類似性を紹介したのは、とてつもなく上手な例えだと思います。良ければそちらも一読下さいませ。

長い文章ですが、半ばに「お味噌汁と刺し子の例え」を紹介しています。

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