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刺し子と私の方針確認 | 刺し子を広めるとは

刺し子の方針確認。

そんなタイトルのブログを書く日が再来しようとは……と不思議に思いながら、様々な想いを抱えて、今現在の私と刺し子との方針を文章にしようと思います。一言で言えば、「刺し子を広めたい」という想いなのですが、刺し子を広めるとはどういうことなのかというのを、再度文章化しておきたいなと。

 

*このブログは、淳のアメリカでの刺し子活動を通して、どうしても伝えておかなければならなくなったことを英語で文章とし、その上で日本語でも同じ意味合いのものを記すものです。英語と日本語で意味が違っては問題が発生するので、両言語の読解が可能な方は、両言語でご覧頂き、大きな違い等があればご連絡頂けると大変助かります。多少のニュアンスの違いは良いのですが、伝えたい根本的なものは一緒じゃなきゃ意味がないので。意図的に違うことを書いている確認……というよりは、単純に、そこまで自分の英語力を信じきれてないというのが本音です(笑)

 

刺し子を広めること | 運針、技術、そして文化

 

「刺し子」という言葉を聞いたことがない人もいれば、逆に刺し子の種類が沢山過ぎて、刺し子って結局なんだろう……と思っている人までいて、刺し子はなかなか一言で表現することが難しい針仕事です。一言で刺し子と言っても、その言葉が指すものが、こぎん刺し、菱刺し、庄内刺し子、一目刺し、その他各地の名前がついた刺し子も含めると、数多くの違った表情を持つ針仕事を指していて、混乱するのも仕方ないかなぁと思うほど。

 

そんな違いの為、刺し子を教える先生と言っても、「伝統柄の運針の刺し子は教えられるけれど、こぎん刺しは専門外」といった話もありえます。私自身、一目刺しとぐし縫いの刺し子はできますが、こぎん刺しや菱刺しは素人ですし、「糸をくぐらせる」といった刺す以外の工程が入る刺し子も苦手です。

 

では、私が伝えたい刺し子とは一体なんなのか。その答えが、「運針」であり、その刺し子が持つ歴史から生まれる日本らしさだと思うのです。

 

刺し子の種類については、こちらの記事で簡単にまとめております。

刺し子とは何か | 刺し子を見つめ直して

 

 

工程(プロセス)としての刺し子

 

一般的に「刺し子」と聞いて思い浮かべるのは、麻の葉柄のコースターだったり、圧巻の線刺しの作務衣だったり、柿の花柄が綺麗な刺し子ふきんだったり……と、人それぞれに思い浮かべるものは違いながらも、なんだかんだで刺し子がしてある作品を思い浮かべると思うのです。思い浮かべる刺し子が違うのは、各々が接してきた刺し子に違いがあるというだけの理由です。コースターでも、作務衣でも、ふきんでも、正解も間違いもありません。

 

幅が広い刺し子という言葉の中で、敢えて私が伝えたいと思っている刺し子は、「工程 = プロセス」としての刺し子です。完成品としてイメージしやすい刺し子だけではなく、「刺し子を楽しむ」という工程、つまりは「運針」を伝えたいと思っています。

 

「刺し子の柄ができて、それが綺麗ならそれでいいや。」

という方もいるかもしれません。そして、その考え方に間違いなんてありません。

ただ、ただ「模様を作るだけの刺し子」ではなく、「思いを込めながら針を動かした結果としての刺し子」を私は伝えていきたいと思っています。「卵が先か鶏が先か」的な話をしたいわけではなく、ただシンプルに、「運針って楽しいんだよ」ということを伝えていけたらと思っています。もし、日本の伝統柄の刺し子が欲しくて、楽しくないけれど結果が欲しくて刺し子をしている人がいると仮定すると、その「刺し子を作る過程の運針」がとても楽しいのだよと伝えたいだけなのです。

 

民衆が当たり前として日々行った針仕事

 

刺し子は、昔の当たり前の日本人が、当たり前の仕事として行っていた針仕事です。具体的に書くと、昔の裕福ではない一般民衆が、新しい布地が手に入らない経済状況下において、夏の畑仕事に使う野良着や布類を中心に、冬に補修を目的として行っていた針仕事です。日本刺繍や着物といった、華やかな文化とは少し異なる場所に位置する、生活の必然性の中に存在し、貧乏が故に生まれた針仕事です。

 

昔の日本はとても貧乏でした。地方に行けば行くほど、その貧困の度合いは増し、山の中の集落などでは布を大切に使い続けていたのです。その度重なる刺し子や補修のパッチワークの結果が襤褸です。

 

当たり前の針仕事だけれども、全ての人が刺し子を楽しんでいたわけではないのかもしれません。

針仕事が得意な人もいれば、苦手で大嫌いだった人もいるかもしれません。ただ、そこに選択肢はなく、生きていくのに必要な布を守り、使える状態に保つという仕事だったのです。集落の中で、時には夜の一人の作業として。時には、刺し子上手な人の家に集まって勉強会をして。想像の範囲を超えず、何も実証する証拠もありませんが、私たちは刺し子を通して、300年前の日本人女性と思いを重ねることがあるのです。針仕事が好きな人も、嫌いな人も、一緒になって針を動かす。繰り返す内に連帯感が生まれ、居場所が確保され、もしかしたら苦手だと思っていた針仕事が、それほど嫌いじゃなくなってくる。そんなコミュニティが存在しなかったとは言い切れないのです。

 

運針をして、リズムを楽しみ、結果を楽しみ、結果に個性と美を見出す。

一針一針に思いを込め、明日の平穏を祈る。

今日一日を過ごせたことに感謝をし、布に針を通す。

 

「マインドフルネス」という言葉が流行るずーっと前の、当たり前の日本人の考え方だと思うのです。何年もの先の未来を憂うわけでもなく、何年もの前の過去を後悔するわけでもなく、ただ日々のありがたみを感じ、その瞬間を生きる。貧困に包まれた集落にとって、未来を憂うとは、つまりは農業&漁業がうまくいくことを祈ることであり、それは天候や海の状態といった、人間のコントロールが及ばない所だったのです。後悔することにも意味はなかったのだと思います。人間のチカラでどうにかなる話ではなかったので。

 

マインドフルネスは、「自分の人生をコントロールできるチカラを持った人間」の、ちょっとしたリセット方法だと思っています。

瞑想、マインドフルネス、ヨガ。いろんな言葉がありますが、つまりは「今の自分を見つめる」ことが肝です。そして、刺し子も運針を通して、今の自分を見つめ、そして自分が何を大切にしているかを思い出すことができるのです。昔の日本の民衆が当たり前に行っていた、当たり前の針仕事が今見つめ直されているのは、その「考え方と生き方」の中に、現代の葛藤への「ヒント」が隠されているからかもしれません。

 

布を補修する刺し子から、心を補修する刺し子へ

 

刺し子は、「布を補修する針仕事」として行われていました。

布を補修しながら、同時に昔の日本人は、一緒に存在意義も感じていたのかもしれません。刺し子を通して自己表現をしたり、刺し子の針目に個性を楽しんでいた人もいるでしょう。しかしながら、主な目的は、布を補修して”生き延びる”ことでした。刺し子をして補修をするしか選択肢がありませんでした。

 

現代において、私たちは「布を補修する」必要性はありません。

お洒落にしたい。個性を出したい。そういった、ファッション性からの補修はあっても、補修しなければ生きていけないわけではなく、選択肢としての刺し子があります。では、私達はどうして刺し子をするのか。個人的な意見ではあるのですが、私達は針仕事を通して、自分達の心(気持ち)を繕っているのだと思っています。それほどに、刺し子には鎮静の効果があります。

 

「スピードと生産性こそが至上で、役に立つこと(お金を稼げること)に投資をすべきだ」

と一般的に考えられている社会の中で、そのスピード感に違和感を持つ人も勿論いて、苦しんでいる人も勿論いて、苦しみながら頑張って、刺し子でその頑張りを癒やすという形があってもいいんじゃないかなぁと思うのです。瞑想的な刺し子。個人的な感想ではあるのですが、人を人らしくする為の刺し子が、現代の刺し子なのかもしれません。

 

刺し子を広めること = 残すこと

 

刺し子を家業とする家に生まれ、幼少期から刺し子と共に育ってきて、何度か刺し子に背を向けて逃げ出したりしつつ、なんだかんだで刺し子と一緒に生きています。

家業の中で刺し子を見つめていた時は、「刺し子を残すためには何ができるのだろう」と必死に考えていました。それは、「刺し子が残ること」=「家業が安定して、会社として存続できること」を意味していたからです。従業員の方に給料を払う責務や、営利団体として利益を出していくという責任の中で、「刺し子を守り、且つお金に変える方法」をひたすら考えていました。

 

「文化(刺し子)は残すものなのか、残るものなのか?」

 

という、私の根本的な問いかけは、この時の葛藤が土台になっています。

営利団体の責任者としての立場から見た時には、刺し子を残そうと努力し、駄目だと判断した時には、静かに幕を閉じれるような準備をしておこう。という、ある意味では自己中心的な考えに陥っていた自分がいます。あるいは、「刺し子文化=私達の活動」といった、とても奢った考え方が根本にあったのかもしれません。

 

不思議な出来事が続き、苦しさも悲しさも飲み込んで、現在、純粋に刺し子を楽しめる立場にいます。もっと砕いて言えば、お金を心配せずに刺し子ができる立ち位置から、刺し子と向き合えるようになりました。

 

日々刺し子を楽しみながら思うのは、「刺し子とはなんぞや」を伝え広めることが、「刺し子を残すこと」になり、結果として「刺し子が残る」んだろうなと。私の個人的解釈が刺し子の全てではないとご理解をお願いした上で、毎週刺し子の配信をしているのは、「刺し子とこれだけ向き合っている人がいる」ということを社会と共有できたらと思っているからです。

 

「刺し子とはこういう刺し方をしたり、こういう柄を書いたりします」という、「刺し子の方法」だけでは伝わらないことがあると思っています。

運針だけでも伝わらないかもしれないし、言葉だけでも伝わらないかもしれないし、まだまだ試行錯誤を続けているのですが、私が刺し子を広めて残したいのは、「日本人的な考え方」なのだろうと思っています。「八百万の神」というか、ものにも魂が宿るというか、当たり前に存在するモノを大切にし、また人を大切にする日本人的な精神を、娘や孫の世代が生きる後世に残したいなと願っています。

 

大袈裟かもしれません。

大風呂敷を広げているかもしれません。

ただ、願いとして、刺し子を広めることによって、私自身が誇りに思っている「日本人」を、世界に紹介できたらと思っているのです。世界がその考えを受け入れてくれた時、刺し子はきっと残るだろうと。

 

 

ものに感謝すること | 宿る想いがあるならば

 

刺し子と私の方針確認。実はこの文章を書くのにはきっかけがあります。ことの始まりは、アメリカでのワークショップの打ち合わせの電話にて、心がささくれだってしまったことでした。電話が終わった後、イライラが止まらなかったのです。

 

「デニムへの刺し子が求められていて、伝統的な刺し子が求められているのではない」という言葉を聞いて、腹が立ったのかな……と、その愚痴をFBに書いちゃったりしたのですが、日にちを跨いで考える中で、腹が立ったのは会話の中の何気ない一言(ちょっとしたため息)だったのだと気が付きました。

 

アメリカでのワークショップは、運針と刺し子の基本をお教えする刺し子ワークショップの受講がスタートです。何種類か刺し子のワークショップを企画していますが、「デニムへの補修パッチワークのワークショップ」を除いて、全ての方に運針と刺し子の基本をお教えするワークショップを受講頂きます。そのワークショップで、私達が理解している刺し子をお伝えし、刺し子に必要な全ての道具(指ぬき、刺し子針、糸、布)等をお渡ししています。私が主催するワークショップの場合で、基本のワークショップ以外のプログラムを受講される場合は必ず、「基本ワークショップでお渡しした刺し子針と指ぬきを持参下さい」という記載をいれます。

 

今回の打ち合わせでは、そこに落とし穴がありました。

ワークショップを主催して下さる方は、二回目のワークショップでも「主催する側が針を提供する」という紹介文を書いて下さいました。「針はそれほど高価ではない。その安価な針を準備することで、参加者の負担を減らせるのであれば、それは準備したほうが良いだろう」という、とても論理的で、且つ消費者目線に立ったアメリカらしい考え方なのかもしれません。この「主催者が針を準備する」という紹介文に、私は変更を依頼しました。二回目のワークショップに参加される人であれば、既に針は持っているはずだから、それは「持参するように」と記載して欲しい、と。

 

ここで主催者は、私達が「針の値段」を節約している用に感じたのかもしれません。あるいは、そんな小さいことまで考えなければいかないのかとうんざりしたのかもしれません。笑いにも似たため息が聞こえた時に、私の腹が立ったんだな……と後からになって理解できるのです。残念ながらこの方は、「刺し子の原点」や「日本人らしさ」を理解しようとしないまま、刺し子のワークショップを「人気があるから」計画してくれているんだなと感じたのだと思います。だから、がっかりきて、寂しくなったのです。

 

私達は針の値段をケチって針を提供しないのではありません。二回目のワークショップに、自分が手にした針を持ってこないのは、「刺し子という、物を大切にする(大切にしなければならなかった)条件の中で発展してきた文化」の根本的な理解ができていないことになります。

 

もちろん、針を紛失することもあります。針が折れることもあります。

買い替えも大事ですし、失ったものをずっと探し続けるのも違うと思います。

ただ、「モノに宿る想いがある」ことを伝えられていない刺し子のワークショップは、正直、50点にも及びません。上記に書いたように、私が刺し子ワークショップを通して伝えたいのは、運針や刺し子の技術だけではないのです。その技術を後付する日本人的な考え方が共有できてなければ、それは私にとって、「ワークショップの失敗」を意味します。

 

全ての方に、この考え方を理解して頂けるとは思っていません。

また、全てのワークショップ受講者の方に、この考え方を日々の生活に取り入れて頂かなければとも思っていません。少しでも、違う文化のいち面を見て頂ければと願うだけです。

しかしながら、私が一緒に「仕事をする」方には、この考えへの理解が欲しいのです。

 

「簡単に手に入るから」という理由で、代用品を準備するのは、刺し子の本質からずれてしまいます。何も簡単に手に入らなかった時代の文化なのですから。

 

 

*後日談です。その後、直接主催者に私の不満と気持ちをお伝えし、文化の理解に時間がかかり、私と刺し子を軽く扱う意図はなかったことを謝罪頂けました。これは、刺し子を広める私側の、紹介しきれていない責任でもあると思います。腹立ててるだけじゃ駄目なのです

*日本の運針会やワークショップでは、そこまで「モノへの思い」を強調してワークショップをしてはいません。理由は、日本人の方が受講者だから。刺し子配信では常日頃紹介していますし、また、日本人であり日本で育ち、その上で刺し子を好きになる段階で、もう当たり前の感覚としてあると思っているため、強調してはいません。針供養という文化も当たり前に存在し、「糸くずはどう使ったら良いの?」という質問を下さる方に、「針は使い続けましょう」なんていうのは野暮すぎて言えません(笑)

 

 

執着ではなく愛着 | 使い捨てでは得られない幸せ

 

モノを捨てられない……という執着を伝えたいわけではありません。

ただ、針と指抜きという、刺し子の間はずーっと手元から離れない道具には、愛着を持って欲しいのです。「刺し子のワークショップをします」とか、「みんなで集まって刺し子をしませんか?」という集まりが合った場合、何も言われなくても、当たり前のように自分の針と指ぬきを持ってくる。有り難いことに、アメリカで行っているワークショップに参加してくださる方は、日本人的な考え方に理解がある方なのか、今まで「針を準備していないとは何事か」と叱責されたことは、ありませんでした。だから少し油断もしていたのかもしれません。

 

日本人では当たり前の感覚が、もしかしたら世界では違う感覚なのかもしれません。その違いを把握することから、刺し子を広めることは始まります。一日悩み、SNSにも愚痴を垂れ流しましたが、これだけの文章を書くための推敲と、表現する機会を下さった上記のワークショップ主催者の方には、心から感謝をしているのです。ワークショップを一緒に行うことにより、私達が見ている風景を、少しでも共有できたらと思っています。

 

スピード。効率。生産性。

RoE(費用対効果)。RoI (投資対効果)。イノベーション。

 

この社会では、使い捨てられるものは使い捨てた方が成功できるのかもしれません。

ただ、使い捨てでは得られない幸せも存在し、”愛着したモノ”という刺し子の原点を、今後も紹介し、伝えていけたらと思うのです。そうすることで、きっと刺し子が50年も100年も先に残ると思うのです。

 

 

ややこしい私達ですが、今後共、どうぞよろしくお願い致します。

 

 

二ツ谷淳:文責

 

 

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