刺し子はアートか

いやはや。大丈夫か……?

大学ではビジネスを専攻し、「お金持ちになることが人生の目的です!」と生き急いでいた僕が、アートについて語るなんぞ、恐縮すぎるし申し訳無さすぎるし烏滸がましいのだけど、でも、「刺し子」と共に生きていく以上、ここに触れないわけには行かないので、現状の理解を記してみることにします。

ちなみに。言い訳に聞こえるかもしれませんが、心の底から勉強不足は自覚しています。その上で、できる範囲で今の僕の理解を文章化し、今後の人生をもってアート(芸術)の勉強は続けて行く所存です。

*英語でアートを説明しようとすると、どうも定義がズレてきてしまうようです。英語での文章は、この日本語での文章の英訳ではなく、しっかりとゼロから考察を構築するものにする予定です。その過程で、この日本語の説明にも訂正が必要だと判断したら、遠慮なくガッツリ訂正します。なので、今回の結論も、まだまだ過程段階のものだとご理解下さい。

アートと芸術と刺し子の定義

まずは、言葉の定義から。これがあやふやだと議論もあやふやになってしまうのでしっかりと定義します。この定義から違う可能性もあるので、その場合は、定義も議論の対象になります。それも仕方ない。でも、引用を多用します。

人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力を、広い意味でのart(仕業)という。そのなかでも特に芸術とは、予め定まった特定の目的に鎖(とざ)されることなく、技術的な困難を克服し常に現状を超え出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし、美的コミュニケーションを指向する活動である。

『美学事典』 著者:佐々木健一 出版社:東京大学出版会より

「アート」の意味は人が作った美的欲求を満たすもの、さらに生きていくための機能は持たない(意訳)

Jared Mason Diamond
意訳元:http://ellie.smilinghpj.org/?p=3262

大義でのアートを「仕業」と訳し、一般的なアートを「芸術」と表記することで、ある程度の整理をしていきたいと思っています。

芸術とは、”予め決まった特定の目的に制限されることなく”という点において、また”生きていくための機能はもたない”という点において定義されるのであれば、刺し子は芸術ではないと思っています。これは、2018年の配信を通して、(苦しみながらも)僕が言い続けてきた言葉でもあります。刺し子は芸術になりうることはあっても、本来の形としての刺し子は芸術ではない、と。

用いて即ち美しい

刺し子の(というか日本の民芸の)大原則は、生活の中にある美です。使われる中にある美であり、用即美(ようそくび)の考え方が基本です。アクリル板の向こう側に展示された作品は、厳密に言えば、民芸ではありません。

刺し子も、日々の生活の一部となるからこそ美しいと思っています。だからこそ、Sashi.Coという活動は、「当たり前の日常に落とし込めるもの」をお伝えし、また作品作りをしています。

その芸術性の高さから、日本の襤褸が世界的に有名になり、価値を上げ値段も上がっています。Sashi.Coが作る襤褸が、”芸術として扱われている襤褸”と大きく違う点は、「現代において作られた、ある意味で新鮮な襤褸」であるということです。襤褸という言葉が、「ぼろぼろ」を意味するので、新鮮という言葉とは全く対義語にすらなりうるもので不思議な感じはするのですが、現代に作られ、現代での生活にて使われることを想定して作っています。ホコリまみれで汚いとか、匂いがキツイとか、そういう襤褸は、芸術作品としての価値はあっても、刺し子の原点からは離れてしまっているとすら思うのです。(逆に言えば、刺し子が芸術に昇華したという表現もできます)。

(= Folk Artという定義になる)


刺し子が芸術になる日

現代の先進国において、「布の補修をしなければ冬を越せない」という人は、まずいないと思います。つまりは、刺し子の原始的な目的(存在意義)は、もう既に失われていると言っても過言ではないと思っています。

ではなぜ、刺し子が現代においても残っているのか。

それは、その刺し子の美しさであり、また刺し子が持つ「人間性を思い出させる力」だと思っています。別途、思いを文章にしたブログがあります。「刺し子と己と会話する」というタイトルで書きましたが、(雑に記事をまとめると)、過程としての刺し子の素晴らしさを書いています。刺し子作品という完成形の素晴らしさを議論したものではなく、敢えて、「刺し子をする」という行動そのものに焦点を当てたものです。

そして、その「動詞としての刺し子」と良く知られている「名詞としての美しい刺し子」において、人は刺し子に惹きつけられ、現代も刺し子が続けられていると思うのです。

完結に纏めます。あくまで個人的な意見です。

「刺し子は芸術ではない」

と思っています。しかしながら、もう少し丁寧に説明をすると

「刺し子が芸術として認識される日がくることもあるかもしれない。但し、刺し子の原点(出発点)は芸術としてではなかった。」

あるいは、もっと端的に言ってしまえば、

「刺し子はFolk Artであり、Fine Artではない」

と、なるのだろうと思っています。

文化と伝統は変化するものとして

個人的な思いとして、刺し子が芸術かどうかよりも、「刺し子の原点である布への感謝や感情」を後世に残したいと思っています。世界中で「刺し子」という言葉が聞かれる今、刺し子を芸術として捉え、各々の背景の芸術や文化と融合させて新たな芸術を作り上げる人も出てくると思います。ただ、刺し子が「自己表現の為の、全くもって生活の為に必要のないもの」として作られた場合、それは「刺し子から派生した芸術」であって、「刺し子」と呼ぶのはどうなのかな……とすら思うのです。正しい、間違っている、という訳ではなく、原点を大切にしたいという1点のみでの議論です。

同様に、布や糸を大切にしない刺し子は、どれだけ完成品が綺麗であろうと、どれだけ世間に認められようと、刺し子とは言えないのではないかとすら思っているのです。


伝統も文化も変化します。

寿司という日本料理は、現代ではSUSHIとして日本国外でも通じます。米国生活も長くなってきた僕にとって、米国のSUSHIは、日本の寿司とは全く違うものです。日本の寿司をベースに作られているかもしれませんが、この二種類の料理を同じカテゴリーには入れられません。どちらが美味しいか……という議論をしたいわけじゃないのです。ただ、ひたすらに、違う……のです。

本来寿司は、江戸時代のファーストフードだったと理解しています。町中に寿司を握る屋台があり、市井の人々が立ち寄り、数貫の寿司をツマんで腹を満たせる。時を経て、その寿司はファーストフード的な要素から、あるいは日本食の究極の形と呼ばれるようなものまで、多々変化してきました。伝統も文化も変化します。ただ、その移り変わりを、「寿司を握るのが(食べるのが)好きだ」と名乗る人には知っておいて欲しいなと思うのです。

刺し子も同様に

なぜ、現代において刺し子が世界的に有名になってきたか、正直解りかねています。シンプルな幾何学模様が美しいのか、それとも「補修」という刺し子らしさが受けているのか、正直まだわかりません。

ただ、「刺し子は日本的な刺繍だ」という断片的な理解で、刺し子を知った気になってほしくないのです。それこそ、「日本の寿司は、生魚の切り身をご飯の塊の上に乗せたものだ」と表現してほしくない気持ちに似ていると思っています。

また同時に、(あるいは逆に)、刺し子を「美術品」として崇め奉ることも好んではいないのです。刺し子は、あくまで民芸だと思っていて、日本人が営んできた日々こそが刺し子の核であり、また愛しさだと感じていて。

背景の文化を知り、そしてその背景を作ってきた人々の気持ちを重んじる。その慮る気持ちこそが、刺し子の原点だということを、今後も伝えたいと思うのです。


人を慮る気持ち。誰かに気を配る手仕事。

それが刺し子であるとするならば、「自分を表現するための手段としての芸術」とは、やっぱり一線を画する必要があるのかな……と。

あくまで、個人の感想になりますが、「自分の正当性を主張しようとする刺し子」よりも、「誰かの為を思い、(良い意味で)驚かせようと思って針を動かした刺し子」の方が、めちゃくちゃ格好いいし刺し子らしい美しさがあります。

芸術かどうかは世間が決める

結論です。

僕は、私達は、「刺し子作家」であるからこそ、「刺し子は芸術ではない」という立ち位置にいます。作り手が、「自分の可能性に挑戦し、芸術を意図して作ったもの」は、既に刺し子ではないと定義するからです。可能性に挑戦したものは、「刺し子から派生した芸術」として、素晴らしいものになると思います。

同時に、私達が作った刺し子作品を、第三者が「芸術だ」と定義することに関しては、特に問題性を感じることはありません。ある作品が芸術かどうかは二元論では存在せず、様々な見方によって論じられるものだと思うからです。

例えば、恵子さんの作品を僕は芸術だと思う時があります。ただ、恵子さんは「芸術作品を作ろう」と思って刺し子をしているわけではありません。刺し子を芸術だと思ったことも無いでしょう。ご依頼頂いた方を思い、布に「もう一度舞台に立たせてやるからな」と語りかけながら作品を作っています。ジャケットの場合、「着て頂くこと」を前提に作るので、しっかり服としての機能をもたせたものです。

作り手がどう思いを込めたかに関わらず、その作品を手に入れた方が「これは芸術だ」と定義すれば、それは一つの完成形だと思うのです。自戒の気持ちを込めて僕が思うのは「刺し子は芸術だ」と刺し子をする作り手には、「どこに刺し子の原点があるのか」ともう一度見直して欲しいということです。

*僕が存じ上げている刺し子作家さんの中で、僕が一番”刺し子を芸術”として作品作りをしている気がしているので(笑)

何が芸術か、何が芸術ではないかを定義することは、とても難しいことです。同時に、大切なことでもないのかもしれません。本人が満足していればそれでいいし、また、きっと自己満足の世界なんだろうと思います。

そんな自己満足の世界で、「声を上げた人間が得る(価値を持ったものが有名になる」という芸術的なステータスではなく、あくまで、無名の針を持った日本人が作った美しさを今後も何とかして、継承していけたらと。

僕自身、「恵子」と「淳」という名前を使って、無名の状況ではない刺し子を作っています。だからこそ、自戒の念も込めて、刺し子という文化の変化に気を配りながら、同時に、昔の日本人の針仕事に心から尊敬の念を抱きながら、今後も刺し子を続けていけたらと思っています。

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