刺し子と己と会話する

刺し子は瞑想に似たり。

一年以上刺し子の配信をして、多くの「刺し子好きな方」、そして「刺し子廃人」的な方とご縁を頂くことがあって、「刺し子の中毒性」を感じているのは僕だけじゃないんだなぁと面白く思っています。

家庭環境もあってか、昔から、自分の現状(能力)と、自分の理想像との距離を上手に把握できない人間でした。そこに飽き性も加わって、家業であった刺し子には全く興味を持たず、むしろ刺し子家業に生まれたことに、嫌悪感さえ抱いていました。夢があり、でも、刺し子という足枷をどこかに感じていて(あるいは言い訳にして)、その夢に対する具体的な一歩は踏み出さず、外堀を埋めるかのような人生を送ってきたような気がします。

そして今、僕の人生の使命であるかのように、刺し子が目の前に舞い戻り、今では刺し子を、様々な角度からみることができるようになってきています。今日は、刺し子を通して自分の現状と、理想との立ち位置を、不器用に、でも具体的に埋める刺し子な時間のお話です。


自分を、もう少しだけ、好きになる刺し子

僕は少数派なのかもしれません。負けず嫌いで完璧主義な人間が刺し子をするということ。本来刺し子に向いているのは、平和主義者で”適当”を見つけられる人間だと思っています。負けず嫌いで完璧主義が刺し子をすると、素晴らしい作品ができる可能性がある一方で、刺し子が苦しみになってしまったり。とりあえず、今日は性格の話はおいておいて、人間の欲について掘り下げていくつもりです。

大なり小なり、人は「隣の芝生は青く見える」という思いを経験したことはあると思うのです。自分が持っていないものを手に入れたい……という欲。その、「隣の芝生」が「目に見える範囲の草原」と広範囲になってくると、人は少しづつ傷ついていきます。

「ここではないどこかへ行きたい」

とか

「今の自分じゃない、何者かになりたい。」

思ったことがある人は、きっといるはずだと思うのです。


こんなはずじゃなかった……とか、あの時あの選択肢を選んでいれば……とか、その架空上の現在では存在するはずだった世界の自分と、今しっかりと存在している自分とを比べてしまうのは、きっと僕だけじゃないはず。

医者になりたかった。音楽でプロになりたかった。料理人になりたかった。

社会人になり、多くの道を極めた人とのご縁を頂く度に自分の中途半端さを嘆き、そして、「今からでは手に入らないだろう自分が中心ではない人生」を羨んでしまって。

ただ、それは自分が大嫌いだ……という思いに直結するわけじゃないのです。

もちろん、昔の僕のように、自分が大嫌いだと思う人もいるかもしれません。でも同時に、”今の日々に特にこれといった不満があるわけでもないけれど”、それでも、想像上の今からでは成り得ない自分に思いを馳せることもあると思うのです。

思いを馳せること。その思いに好き嫌いといった感情を巻き込むこと。そして、今の自分と、なり得たかもしれない自分との距離を、ほんの少しずつ埋める作業。それが刺し子をする時間に生まれる、自分との会話だと思っています。


刺し子は、優しく「あるがままの自分」を見せてくれる鏡になるような気がしています。刺し子をしている時、基本的に世界は指と指の間の単純な針と布との出会いで完結します。針を布に刺し、糸を通し、針目を整える。それ以上でも、それ以下でもない、とてもシンプルな世界がそこには存在します。

そのシンプルな世界でひたすら手を動かす時、僕たちは「誰と比較するわけでもない自分」と、会話ができるような気がしているのです。そして、ふと思うのです。あれ、案外、自分のこと嫌いじゃないな……と。これが僕が思う、「自分をもう少しだけ好きになる刺し子」なのです。


あなたのままで素晴らしいとは言うけれど

自己啓発の本や、スピリチュアル関連の文章なんかを読むと、「あなたという人間が素晴らしい」とか、「あなたはあなたのままで良いのです」とか、いろんな心の絆創膏を見つけることができます。実際、その通りだと思うし、またちょっと嫌なことがあって、心が擦り傷状態の時には、その絆創膏はとても良く効きます。血を止めてくれるから。

もっと深く傷ついてしまった時、あるいは定期的に傷つく様になってしまったときは、もう少し強めの薬が必要なのかもしれません。それは実際の薬かもしれないし、何かしらの人生の変化をもたらすきっかけかもしれない。どちらにしろ、「現状を維持したままで痛みを抑える方法を選ぶ」か、「環境、もしくは自分を変えて痛みから逃れるか」の二種類しかない……。体に影響を与えるほどの痛みがある傷を負ってしまった時、耐えるか逃げるかの二種類しかない……。

……と、ずっと思っていました。刺し子を、瞑想を始めるまでは。

傷つけているのは自分。認めるのも自分。

なんとか頭の中に流れてくる言葉を過不足なく説明しようとして、「傷と薬」という例えを使いましたが、今回の傷と薬の例えは、実際の怪我とか擦り傷とかではなく、心の痛みの話しを説明する為のものでした。

心の痛みは、つまりは「生き辛さ」でもあり、また誰にも(自分にも)見えない、それでも痛みや不快感は残る、ちょっと扱いづらい痛みです。

「あなたのままで素晴らしい」という言葉は、その通りではあるのだけど、本当の意味で不快感を取り除く為には、「誰が傷つけているのか」を理解する必要があります。そして、(言われなくてもわかってると言われることを覚悟して言うと)、その自分を傷つけているのは、自分自身なのです。(*未成年、及びトラウマ等を持っていらっしゃる方の場合は特例があるので、上記に纏めてしまうのは良くないです。一般論としてご理解下さい。)


自分を傷つけてしまっている自分を認めてあげる方法。それが刺し子だと思うのです。刺し子を通して、己と会話する。針目を通して、自分の立ち入りを知り、そして感謝する。

偉そうに書きながら、僕はまだまだ到達できていない場所ではあるのですが、ただ、「刺し子を続けていけば、そこに到達できるんじゃないかな……」という確信を得て、今回、文章にしています。刺し子を(刺し子の配信)を、今後人生を通して続けていくことにより、僕はきっと、誰とも自分を比べず、本当の意味で、「俺は俺のままでいい」と胸を張れる時がくるんだと信じています。

自分の中に存在する神に出会うまで

どこで耳にしたか、どなたから教えて頂いたか、はっきりと思い出せない文章があって、それがずっと、僕の刺し子に対する向き合い方になっています。

鏡(かがみ)に写った自分から、我(が)を抜いた時、そこには神(かみ)がいるから。

引用元不明: Unknown

なぞなぞのような言葉遊びなのですが、この一文が、どうも頭から離れないのです。そこに真実が有るような気がしていて。

我と神とのバランスをとる刺し子

人間です。欲があり、我があるのが普通で、それが無いなんてのは気持ち悪いくらいだと思うのです。

年収500万よりは、年収1,000万がいい。年収1,000万よりは、年収2,500万がいい。

今よりも大きい家に住みたい。良い車に乗りたい。美味しいものを食べたい。楽したい。気持ちいいことしたい。認められたい。褒められたい。したい。したい。したい。

日々、様々な「とめどない欲」と共に、僕たち人間は、なんとか現実と折り合いをつけて生きています。ただ、時々、その欲と自分の立ち位置をのバランスを崩してしまうこともあるのです。人生には優先するものがあり、それは人それぞれ違い、自分の「我」を優先できない時になんとか折り合いをつけようとし、そのバランス調整に失敗すると、上記のような、「自分が自分を傷つけてしまう」現象がおきます。

そんな時にバランス調整をしてくれるのが刺し子だと思っています。神は神々しいものではなく、普通に当たり前に人間に存在している、「思いやり」だと思うのです。人に対する、そして自分に対する優しさこそが、刺し子を通して伝えたい僕の思いだったりもして。

繰り返しになりますが、偉そうに書きながら、まだ自分自身では書いたことの殆どを形にできていません。ただ、刺し子と真摯に向き合い、ここ5年ほど瞑想を日常に取り入れ、「(理想の誰かと比べて)劣っている自分」を見つけられそうな気がしています。

刺し子は、「完成品としての綺麗な刺し子」だけではないのです。その過程であり、運針を通して感じられる人間らしさだと思っています。なかなかこっ恥ずかしくて、んでもって小難しいこの話を、来年は配信でもしっかり言葉にしていけたらなと思っています。どうぞ、今後共宜しくお願い致します。

文責:二ツ谷淳

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