針目に込める祈りと心

Sashi.Coウェブにて文章を書いている私の主な役目は「刺し子を(英語で)伝えること」だと思っています。ニューヨークでのワークショップも、動画で刺し子の作業風景を配信することも、刺し子家業を営む一家に生を受けた(受けてしまった)私の役目なんだろうなと思って、日々活動を続けています。

刺し子を伝える為には、刺し子を知らなければなりません。今年、お寺様にて刺し子の展示会を開催するご縁を頂いたこともあり、少し「刺し子とは何か」について、深く掘り下げてみようと思っています。

*別記事にて「刺し子とは何か」について具体的例を用いながら、私の思いを纏めています。今回は、刺し子を通した日本人的な考え方とは何か……という観点からの文章になります。

*仏教等、私の無知により間違った情報を記載してしまっているかもしれません。ご指摘頂ければすぐに訂正致します。


現代刺し子と、昔の刺し子

形式がしっかりとした組織が存在しなかった刺し子において、「これぞ刺し子」という歴史を紐解いていくことは容易いことではありません。それだけ文献が少なく、また文献そのものも一次情報源(*1)ではなかったりと、知識を元に論理的にご説明差し上げるのが難しいのです。同時にそれが、本来の刺し子の姿なのだとは思うのですが、やはり私達は”正しい”答えをどこかで求めてしまいます。(誰も現代の味噌汁のレシピや歴史を書き残そうとは思わないのと類似していて、それだけ刺し子が日本人の日常に当たり前に存在していたのだと思います)。

現代における刺し子作家、刺し子ギルド、刺し子屋と呼ばれる人達は、勿論私も私の家業だった仕事も含め、「刺し子を現代風にアレンジした刺し子」をしている思っています。刺し子という文化を後世に残したいという思いで作品を作り、技術を継承し、柄を作っていく。とても素晴らしい活動です。そういった思いが刺し子を現代の刺し子たるものにしているのだと思います。

同時に、「刺し子の核たるもの(昔の刺し子)」を現代にて再現することは、限りなく不可能に近いのではとも感じています。現代はすでに、”裕福すぎる”のです。「刺し子をする」ことが選択肢である以上、当時の日本人が作っていた刺し子作品の素晴らしさには近づけず、300年前の刺し子着や襤褸を見る度にため息が出てしまうのは、心のどこかで、刺し手である自分とその作品との間に距離をとってしまうからかもしれません。現代の刺し子と昔の刺し子、同じ系統にはありますし、歴史の一線の上には同じように存在するのですが、似て非なるものなのかもしれないとすら思っています。


刺し子は技術や柄だけではなく、祈り

素敵な刺し子作品を作る為には、運針の技術であったり裁縫の技術であったりと、「刺し子の技術の熟練」は勿論必要です。また、幾何学模様であったり、独創的な柄であったりと、作品のテーマにそって表現をしたい刺し子を作れるセンスや知識もとても大切です。ただ、その「技術とセンス」だけでは完結しない所に刺し子の面白さがあると思っています。

刺し子は、その技術とセンスに「祈り」が加わった時に完成形になるのだと。そして、刺し子とは、祈りを通して自分と世界を繋ぐもの(己と他を調節するもの)なのだと。

楽しい運針をされている方の針目は、見た瞬間にわかります。針目が踊っている感じがするのです。私達Sashi.Coの作品に魅力があるのは、きっと作り手の一番手である恵子さんが、心から刺し子を楽しんでいるからだと思います。同時に、「楽しさ」だけじゃなくて良いのです。だからこその言葉選びで、「祈り」と共存する刺し子という表現にしました。

喜怒哀楽。憎しみでも良いでしょう。

どんな感情にも、その原点には「よく有りたい。よくしたい。」という祈りが存在します。怒りであれば、「どうして分かってくれないの?」とか「どうしてできないの?」という他人への(あるいは自分への)感情でしょうし、また憎しみであれば「どうしてこんなことに」という現状を招いてしまった運命への(あるいは自分への)気持ちだと思います。楽しさや喜びは、「今ある楽しさを維持したい」という祈りが込められていると思います。

布と針と糸と自分で完結する刺し子の世界は、常に誰か(自分)を気にかけ、そして一瞬の祈りを捧げる世界だと思っています。間違いをしてしまった過去でも、失敗をしてしまうかもしれない未来でもなく、また華やかな栄光の過去でもなく、また理想とする(けれどもまだ手が届かない)未来でもなく、「今この瞬間」こそを感じることが刺し子であり、その瞬間において、「感情を抱くことを許容し、祈り、針を進めること」が刺し子の核なのではと思っています。

マインドフルネス。禅。瞑想(メディテーション)。様々な方法で、「今を観察する(良いか悪いかの判断をせずに今を認識する)」ことができます。私自身、瞑想は日課にしていて、瞑想による様々なメリットを感じています。そして、「刺し子は瞑想だ」と思うのは、この「祈りがある指先で完結する世界」だからこその(予期せぬ)副産物なのです。

瞑想でいう「無になること」は、想像以上に難しいことです。人は、常に「答え(解決策)」を探そうとします。現代人は特に、「問題→解決」という生き方が刷り込まれていて、問題を問題として観察することはなかなか容易ではありません。問題を解決できる力こそが生産性であり、またそれが現代においては生きるチカラ(稼ぐ力)ですし。

ただ、そんな時代だから、「無」になる時間が難しい毎日だから、刺し子は人に安らぎを与えるのだと思います。瞑想で「無」に1時間なるのは相当大変なことですが(疲れていると寝ます)、刺し子で指先だけの世界に身を任せて「1時間刺し子をする」ことは、めちゃくちゃ容易です。むしろ1時間じゃ足りない……となることでしょう。(刺し子に)祈りを込め、また祈りを込めている自分を許容し、日本人は日本人らしい文化を築いてきたのだと思います。


なぜ(生きるのか)という答えが欲しいからこそ

「社会」という単位が存在する以上、全ての感情を表に出すことは良くないこととされています。波風を立てないように生きる為には、憎しみや怒りは勿論のこと、喜びや楽しさも抑圧することが正しいのかもしれません。

ただ、どれだけ抑圧しても、感情は存在します。

喜び、感動、楽しさ、憎しみ、悲しみ、哀しみ、怒り。これらが無い人間というのは、もはや人間ではないような気がするのです(*2)。感情を抑圧し、閉じ込め、それでも逃げるところがなくて、でも助けて欲しくて、その結果辿り着く質問が、「なぜ(生きるのか)?」という自問自答です。様々な宗教において、この質問において答えがあり、またそれを達成することを悟った状態だと表現することもあると思います。

答えは簡単には出ませんし、また出たとしても普遍的なものではありません。今日の答えが明日違う答えになるかもしれない。でも、それで良いんです。それが人間ですから。

その「人間であることを受け入れる手段」として、刺し子を伝えていけたらいいなと思っています。これほどに、自分と向き合える気軽な手段はないのです。だからこそ、「刺し子に正解も間違いもない」とか、「人の刺し子と自分の刺し子を比べないで」とか、「楽しく運針ができることが一番」というメッセージを発信し続けていけたらと思っています。

誰かを(自分自身を)批判しない世界は、とても過ごしやすいものですが、同時に実現しにくいものでもあります。私に至っては、自分を批判しない世界なんぞ想像すらできませんでした。現代社会においては「自分が正しいと証明すること(Opinion – オピニオン – 個人的見解)が、上手に生きる手段になっています。自分が正しいことを証明する為には、意見が食い違った際は、その相対する意見を批判(否定)する必要が出てきます。そこで適応されるルールは、論理という弱肉強食の世界感です。

刺し子にも、この「正しいことが正しい」というルールが適応されてしまっているかもしれませんが、私が望んでいる刺し子は、「Opinion」に支配されたものではなく、「Empathy(共感)」に溢れたものです。どんな考え方も、どんな生き様も、どんなデザインも刺し方も、(自他ともに誰も傷つけない限り)、素晴らしいものであるという立ち位置から、今後も刺し子を紹介していきたいと思うのです。


昔の刺し子と繋がる

私が話している刺し子が全盛期だった頃、おそらく日本における仏教の影響力というのは凄まじいものがあったと思います。貧しい地方であれば、なおさらです。とはいえ、出家をして修行するという訳でもないので、様々な喜怒哀楽プラスアルファの感情を持ちつつ、同時に仏教の教えを守りながら、「感情を消化(昇華)する作業としての刺し子」があったと想像しています。

少し具体例を出します。刺し子は女性の、当たり前の仕事でした。現代で言えば、朝にお味噌汁を作るようなものです。

外で働く旦那の野良着に穴が空いた。これでは明日の野良仕事が寒いだろう。それでも、今朝、あの旦那は私に酷いことを言った。怒りはあるけれど、この補修は大切だ。針を通そう。

あるいは、喜びの感情もあるでしょう。

質の良い綿の生地が手に入った。これで小さな首巻きを仕立てよう。どんな柄にしようか。どんな仕立てにしようか。楽しくて堪らない。(旦那には内緒にしよう)。

この「様々な感情がある当たり前の日常」の繰り返しで、襤褸が生まれ、また刺し子が現代まで残ってきているのだと思っています。そして、その当たり前の感情が複雑に籠もっているからこそ、力強いし、美しいし、人を感動させるのです。(ちなみに私は、展示されるほどの襤褸は凄いなとか格好いいなとは思うけれど、欲しいとは思いません。自分の家には展示とかしたくないと思うほどに、思いが籠もっているのです)。

時に恵子さんは不思議なことを言います。「昔の日本人の方と、時間を共有している感覚を覚えた時の作品って、自分でも説明がつかないくらい面白いのよね」。

思い(念)の世界では、もしかしたら時間軸は存在しないのかもしれません。話が逸れるので深くは話しませんが(*3)、「祈りと刺し子」を通して、時間も時代も場所も全てを超越して繋がれるのかもしれないと思うのです。そして、それが居場所になれば……と。


まとめ。淳の壮大な夢として。

今、こうして刺し子について落ち着いて文章を書ける日々を送れるようになるまで、相当な時間を要しました。人それぞれドラマがありますし、私の人生が特別過酷だったとは思いません。ただ、刺し子を継承したいと思う人間の一人として、また大きな振り子のような人生を歩んでいる一人として、「刺し子と祈りと自分を認めること」という話を、多くの方に聞いて頂ければ嬉しいなと思っています。

ずっと幸せは掴むものだと思っていました。その幸せを掴むために目標を設置し、より大きな幸せを掴むために、その目標は大きく変化していきました。ところが、ふと気がつくのです。幸せは掴むものではなく、「気がつく」ものだと。自分が正しいことをどれだけ主張しても幸せは掴めませんが、自分と社会(他人)との共感ができる立ち位置を見つけると、幸せを感じることができます。逆に不幸という感情は、「今立っている場所」と「目標とする行きたい場所」の距離があればあるほど強く感じるように思います。

「目標を諦めて、今の自分を愛せ」と表面的なことを言っているのではありません。ただ、必要以上に自分を責める必要もなければ、他人に「自分が正しい」と吠えることも、逆に「自分は正しくないから」と逃げることも、また「正しいとされる自分」を演技する必要もないと思っています。

共感力とは最終的に、「誰かのチカラになれる力」です。誰かの為に生きる人生。言うほど簡単ではないですが、今、「母、妻、娘」という三世代の女性の為に生きることを主軸としている私の人生の中での思いを、一人でも多くの方に伝えていけたらと思っています。それが私の刺し子を通した夢であり、今後も刺し子を続ける大きな理由のひとつです。幼少期から、ずーっと描いて憧れてきた「チカラをくれる誰か(助けてくれる誰か)」になることが、夢なのです。


*1 刺し子や襤褸という文化は、本来「お金がなくて仕方なく」行ったものだったようです。その為、刺し子が上手な人(=当時相当に貧しかった人)であり、刺し子のことを伺っても、なかなかお話頂けないこともありました。刺し子が上手ということ自体を、やんわりと否定されるのです。これが第一次情報源が乏しい理由の一つだと思っています。

*2 実際、仏教においては、マイナスの感情を持たないように修行することにより、仏に近づけるという教え(だと理解しています)。

*3 スピリチュアルと呼ばれる精神世界は、眉唾ものなことも多いですが、同時に論理的に説明しようと思えばできてしまうものでもあります。私個人としては、刺し子と精神世界の両輪にて私の人生は成り立っていると思うので、また興味があればコメント下さいませ。眉唾もののスピリチュアルについては、個人ブログにも沢山記載しています。

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