刺し子の究極の到達地点、襤褸が流行になる中で

襤褸。なんて読むかご存知でしょうか?”ぼろ”や”らんる”と読まれ、意味としては「ぼろぼろの布切れ」や「破れ等に繰り返し補修がされた衣類」を指します。漢字ではありませんが、現代でも使われる”ぼろぼろ”「心身ともに疲弊した状態(ぼろぼろな状態)」も同様の言葉という理解です。この襤褸が、BOROとして、日本国外でとても人気になっています。

「襤褸と刺し子は関係あるの?」と思われるかもしれません。実際、私は刺し子をしているだけであって、芸術作品としての襤褸の専門家ではありません。ただ、一つの理解として、「布の補修としての刺し子を続けた究極の到達地点が襤褸である」という思いを抱いています。布を手に入れることが難しかった昔の日本の地方に住む農民達。手元にある布の端切れを、野良着や腰巻きにできた穴の補修に使う。あるいは、破れてしまった布を丁寧に刺し子をして補修する。そんな貧困極まる毎日の中で行われてきた生き抜く術が刺し子であり、また何世代にも及ぶ針仕事の結果が襤褸なんだろうと思っています。

BOROは、一昔からは信じられないような価値を持つようになりました。それこそ、言葉通り、ボロ布がお金を産む状態です。価値があり、そこに人が集まれば様々な解釈が出てきます。その変化を総称して文化と呼ぶのでしょう。だから、変化そのものは否定もしないですし、私もその流れの一部として、しっかりと考え続けてきたいと思っています。

ただ、どうしても譲れないことが一つだけあります。それはBOROが襤褸と繋がっている以上、それは「日本の文化と綿密に繋がっている」ということです。「綺麗だから、価値があるから何でも良い(日本文化は無視してしまえ)」というのは論外として、「布の再利用のアイディアだから自由に創作していい」というのも、その議論に襤褸や刺し子への尊敬(つまりは日本的な考え方への敬意)がなければ、言葉が一人歩きしてしまうと思うのです。しかも外国で。言葉が違う外国で迷子になるのは、とても怖いです。私自身、あまり迷子にはならないので頻繁にはないのですが、それでも数少ない経験は今でも悪夢としてうなされる程です。

では、譲れないことがあるのであれば、どうしたら良いのか。私一人の言葉は微力ではありますが、思いを共有することが何よりも大切なことだと思っています。活動として、刺し子や襤褸について、英語が中心ではありますが、SNS(インスタグラムFacebook)で日々思いを投稿しています。日本語で書くこともありますので、フォロー頂けましたら幸いです。

*どうしても、英語でのBOROやSASHIKOの流行は現在進行系で、とても流れが早いので、英語でのメッセージが多くなってしまっております。こうやって、日本語でもしっかりと思いを伝えられるように頑張ります。


流行は良いのだけど……

2008年から、「刺し子を世界に紹介したい」と密かに思っていた私にとって、刺し子と、その結果の一つである襤褸の認知度が上がることは、とても嬉しいことです。流行そのものは良いんです。ただ、襤褸がBOROとして流行になる中で、「BOROはアートだ」と英語で叫ばれ続ける、違和感の流れの中に一石投じたいと思うようになりました。確かに現代で価値のある襤褸作品には、芸術的価値もあると思います。ただ、その襤褸を芸術として見る時に、日本人としての物語を必ず付帯させていくべきだと思うのです。それが、文化を残すという事に直結すると思うから。

そんな思いでご紹介した写真が以下のものです。インスタグラムでは沢山の方に反応頂き、日本人の方からは、「淳が壊れちゃったんじゃないか」と心配頂いた写真です。

「襤褸の上でご飯を食べる」。この言葉とこの写真をご覧頂いて、「素敵だなぁ」と思う人は日本人には少ないのではないかと思います。この襤褸作品は私の母親が中心となって、現代において作られたものです。その制作過程において、何回も洗濯され、綺麗で匂いもない、ただ見た目が襤褸っぽい布です。それでも、食欲がわかない。”青いご飯”みたいなものかもしれません。究極の違和感。私からすると嫌悪感。やっぱり襤褸の上でご飯を食べるのはいけません。

実は、上記の写真は、「2回目の撮影にて」撮ったものです。どうやったら襤褸を伝えられるだろうかと試行錯誤して撮った最初の写真は、あまりにもメッセージを詰め込みすぎて逆に混乱しちゃうかな……と思い、再度簡素にして撮影したものが上記のもの。2枚ともインスタグラムでご紹介はしたのですが、主とされる一枚目は上記のものではありません。

インスタグラムのコメントにて、以下のお言葉を頂きました。


御膳に横たわるお箸が示す境界線、向こう側の命だったもの、こちら側の命。
境界線が見えるから日本人は手を合わせますね。いただきますと。(@monamiyu_ki)

https://www.instagram.com/p/CGUqfb8JmMz/

その後、この2枚の写真をご覧下さった数名の支援者の方から、「どうして似たような写真が2枚あるの?」というご質問を頂き、私の当初の意図の一部をご紹介できればと、ブログにしようと思い立った次第です。

*ただでさえ長いブログが、また長くなると思います。ご容赦&ご覚悟下さい。

日本的な違和感を詰め込んだ襤褸の一枚

まずは、その「最初に撮った襤褸の写真」をご覧下さい。いろいろ考えて写真を撮ったのですが、込めた思いが伝わりにくいかもしれない……と思い、敢えてご紹介の際には2枚目にしました。

伝わる人には伝わるかなぁという思いも込めて。実際、上記に頂いたコメントのように、同じ波長の思いを持つ方がいらっしゃることが確認できて本当に嬉しかったです。

様々な思いを込めたのですが、とりあえずお伝えしやすい所で3点、ポイントを絞ってご説明します。八百万の神を信じ、儀式を大切にし、「人間とはなにか」を考え続けた日本人的な感性のご紹介です。

尚、あくまで私個人の思いだとご理解の上、読み物としてお楽しみ頂ければと思います。これまで読んできた書物や、伺ったお話を、私なりに解釈し、また日々考えているものをまとめたものです。一部を切り取って論じられることのないよう、できるだけ注意をして文章にしております。

1. 箸と橋。生と死との境界線

上記のインスタグラムで頂いたコメント、そのままです。ありがとうございます。

日本人は食事の際、箸を横に置き、何はともあれ、まず最初に手を合わせて「いただきます」と言霊を発します。箸から手前側はこれからの命の世界(未来)。箸から向こう側はこれまでの命の世界(過去)。この異なる性質を持った”同じ世界”を結び、且つ区別する境界線が箸なのだと思っています。

「いただきます」とは、箸の向こう側にある「命だったもの」を頂きますよ……という御礼の一言だと思っています(諸説あります)。そして、いただきますという言霊と一緒に箸を持った瞬間、箸は橋となり、過去と未来を繋げ、過去が未来を助けるようになるのです。言い換えると、命があったものを頂く行為(=死)を禊ぐ儀式と言えるかもしれません。

少々仰々しくなってしまったかもしれませんが、日本人にとって、箸が置かれた食事というのは、日常でありながらも儀式として扱われていたように思います。もちろん、現代ではそこまで考える人は多くないと思うのですが、箸を縦に置く人やご飯の上に立てる人が少ないように。(どちらもマナーが悪いとされているけれど、でもマナー以上に”なんか気持ち悪い”と思う人が多いはずです。ちなみに中国では箸は縦に置くのがマナーだったように思います。)

そんな食事に、日常の”ケ”の結晶とも言える襤褸を敷くなんて、正気の沙汰とは思えない……と感じる人が多いのではないでしょうか?これほど具体的に言葉にできなくても、「なぜか違和感」「なんだか気持ち悪い」「とても嫌」と思う方が多数いらっしゃると思うのです。

襤褸が補修を繰り返された”綺麗ではないもの”という前提や、はたまた刺し子そのものが布の補強を目的にされたもので、結果的に履物を置く布であったり雑巾的な役割だった……という民俗学的な知識が、その嫌悪感の一翼を担っていることは間違い有りません。と同時に、上手く説明できない嫌悪感は、「穢を禊ぐ境界線である箸を、汚れを拭う襤褸の上においてどうするんだ!」という、前提そのものをひっくり返された気持ち悪さなんだろうと思っています。

日本国内にある、様々な「いや、それはしちゃ駄目でしょ」的なもの。法律的に禁止されているもの。倫理的にしてはいけないもの。様々なタブーが存在しますが、その一つとして、「日本の文化として形にしてはいけないもの」というものも存在するのだと思っています。

その意味合いを込めて、箸をできるだけテーブルの端の所におきました。これは写真を撮る段階で、「なんか嫌だなぁ」と思っていた結果なのですが、こちらとあちらの世界を区別する方法を考えてのことです。本来であれば実際にお椀にお味噌汁を入れ、横には白米を……と思っていたのですが、そこまでも形にできず、結果として、空のお椀にして、箸を目立たせることによって境界線として意識してもらう……という意味を込めた一枚です。

八百万の神の信仰、物語そのものを否定するような襤褸の用途は、決して「流行の中で軽視していい」ものではありません。

2. 右に汁物。左にご飯。日本人の前提。

2つ目の理由は、もっと単純です。ある程度の常識がある方であれば、日本の配膳のマナーとして、「ご飯は左、汁物は右」というのは当たり前だと思います。普段の食事ではそれほど気にしないまでも、日本式の儀式の際の食事で、汁物が左にきたら、違和感(というか気持ち悪さ)を感じてしまうのは私だけではないと思います(そんな経験は今までないですが)。

写真を撮るだけでも、汁物はお椀に入れることができず、またご飯(白米)に至ってはご飯茶碗を襤褸の上に置くことすらできませんでした。なので、この写真は、「日本の当たり前のマナーにできるだけ従おうとした配膳(の一番シンプルなもの)」とご理解頂ければと思います。

この「前提」というものが、刺し子や襤褸に限らず、日本の文化を英語にて紹介する際にとても大切な要素になってくると思うのです。英語圏では、暗黙の了解的な前提があまり存在しません。それほど社会的に尊重され且つ従うべきものがあるのであれば、それは法律で定めるべきだという、「正しいか否か」という論理的思考を何よりも大切にするからです。これは、移民が集まり作られた様々な人種で成り立つアメリカを中心として、「それぞれの文化を尊重するのではなく、法律で押し付けないとまとまらない」という論理があるんだと思います。国を作る上で間違っていない……というか、法こそが王道だとは思いますが、でも、この刺し子と襤褸に関して言えば、あくまで日本的な前提こそ、大切なものだと思っています。

「ご飯は左、汁物は右」というマナーに、法律はありません。極論を言えば、「ご飯は右、汁物は左」をクールで芸術的だと思って表現することは自由です。ただその、「ご飯は右、汁物は左」を、日本のマナーだと、”日本の文化を知らずに”、多言語にて紹介することは、文化の塗り替えになってしまうと危機感を感じています。配膳のマナーには理由があるそうです。どうしてそのような形になったか諸説があるようです。諸説の紹介はここでは省きますが、”物語”を無視して、自由という名の解釈で文化を塗り替えることだけはしてほしくないなと思うのです。

刺し子も襤褸も一緒です。

自由な解釈も、好きなように楽しむのも、刺し子らしくて良いと思います。手仕事なのだから、どのような変化をしても問題ないのです。ただ、”物語”を無視して、日本の前提を理解すらしようとせずに、「刺し子は自由だ!」と世に広めることは、それは寂しいことだと思うのです。

お椀を右に置く理由。それは、前提の大切さを伝えたかったからです。とはいえ……白米を襤褸の上に置くほどの覚悟はなく。この写真をきっかけに、「なぜ汁物のお椀だけなのか……そこには前提があるのか?」と日本国外の人にも疑問に思ってもらえたら良いなと思ったことが2番目の理由です。

3. 箸の先の一寸には神が宿る

少し言葉の選び方が違うかもしれませんが(うる覚えで)、「箸の先の一寸には神が宿る」という言葉を聞いたことはないでしょうか?迷い箸をしちゃいけないとか、人様を箸で指しちゃいけないとか、お椀を箸の先で引き寄せてはいけないとか……、子供の頃に躾けられたマナーの前提にあるものなのかなと思っています。料理が好きなのもあって、この箸の先には神様がいる……というのは、とても好きな日本的な考え方のひとつです。

だからこそ……、箸の先は写真に含めることができませんでした。「神様は人様に見せるものではない」という気持ちもありましたし、何よりも、これほどまでに「敢えて違和感を詰め込んだ写真」に、その神様が存在しうる箸先を含めることは、どうしても嫌でした。その結果の、中途半端な箸の位置だとご理解頂ければ幸いです。

「箸の先には神様が宿るから、こういう気持ちよくない写真には入れたくなかった」という私の思い。日本語でこの文章をお読みの方であれば、「その気持ち、わかる気がするなぁ」と思って下さる人も多いのではないでしょうか?これが日本国外に出た途端、「神様?イエス・キリストが箸の先に宿るわけ無いじゃん」という一神教的な考えや、「そんなの考えすぎだよ」という無知を誇るようなアドバイスがたくさん届きます。そんな主観からくるアドバイスや論争に巻き込まれるだけではなく、結果的に、「綺麗で自分が満足できればいい」という考えで、当たり前が塗り替えられてしまうような感覚すら受けています。もっと言うと、「日本的な見た目の襤褸や刺し子を紹介することで、お金儲けができるんじゃないか」と企む人が増えてしまうことに懸念を抱いています。というか、もう手遅れ感はあるのですが。

お金儲けが悪いんじゃないのです。寧ろ、お金儲けは素晴らしい。どんどんお金を稼いで、循環を強固にしてもらった方が文化的にも大切な話です。ただ、それが「文化を無視して」となると、話は別です。「お金儲け」の大原則は、「欲っされていると思うものを提供すること」です。需要と供給のお話。その際、「刺し子や襤褸の見た目が好き」な方は、「如何に簡単に楽に不自由なく、同じものを作れるか」に意識を向けます。「聞きたい言葉を発している人」の商売を崇高し、また言葉を発している人はお金という力を得て、また市場に「文化とか関係なく求められているもの」を投入し続けます。そうやって流行が形成され、その流行が形になった時に作られるのが、「文化」だと思っています。

八百万の神といった日本的な信仰を理解されようとしない方が、刺し子や襤褸を自己主張の媒体として使うことは、やっぱり寂しい結果に繋がってしまうと思うのです。

*ちなみに、「でも、この投稿の一番最初の写真は箸先が写ってるよ?」と疑問に思われる方もいると思います。一番最初に掲載した写真は、2回目に撮った写真なのですが、2回目は「インスタ映え」を狙ったものです。意図的に西洋のプレートを置いて、なんとか自分自身を機会的にした写真だとご理解頂ければ幸いです。それでも嫌でしたけどね。

襤褸は美しい。でも家に欲しいものではない。

襤褸(っぽい作品)を自分で作るようになって、数年が経ちました。襤褸の中には、とてもとても素敵な作品があります。「襤褸は美しい」という言葉は、決して間違いではないと思っています。それは日本人かどうかに関係なく、「襤褸は美しい」と思えるだけの資料も物語もあると思います。言葉を選ぶのであれば、「力強い」とか「心に響く」といった称賛の言葉もあるのでしょうが、全てを総して、襤褸は美しいという流行そのものは間違っているとは思いません。寧ろ、素晴らしいものだと思っています。

ただ……、正直な話をすると、私は昔の誰が何の目的で作ったかわからないような襤褸は、あまり欲しく有りません。頂けるのであれば、頂いて倉庫に保管すると思います。どうしても、その襤褸を自分の居場所である家には持ち込みたくないのです。私が自宅に補完している襤褸は、全て、母親が作り僕が補修し続けているものです。誰がなんの目的で作った襤褸であれば、それは気持ち悪さもなく、純粋に美しさを楽しめるものであると私は思っています。

流行は良いんです。ただ、もし、「襤褸は素敵。かっこいい。」という旗振りが先行し、結果的に襤褸の本質を無視した挙げ句、襤褸が世界中のテーブルの上で使われるようになることだけは、刺し子を伝える一人として、止めたいと思っています。もう間に合わないかもしれませんが、それでも声は出さなきゃいけないと思っています。襤褸はすでに安価なものではありません。そんな高価な襤褸が、「超高級フレンチレストランの高価な食器の下に敷かれ、そして”日本的な敷物で素晴らしいわ”と夕食を楽しまれる」ことになったら……いろんな意味で、”気持ち悪い”んです。違和感を通り越して、嫌悪感です。

たった一枚の写真で、3つのテーマと共にお話を膨らませました。まだまだ書きたいことはあるのですが、一度ここで、結論を出したいと思います。

襤褸には草履が似合う

どうやったら襤褸を上手に伝えられるだろうと試行錯誤する中で、ふと撮った写真がこちらです。

私がアメリカで行っている刺し子ワークショップで使っている草履。もうぼろぼろなのですが日本に帰って購入しようと思っていた為、いまだこの一足のみです。このぼろぼろの草履を襤褸の上に置くと、とてもすっきりしませんか?

襤褸が「超高級な玄関マット」として世界中に知れ渡っっていくのであれば、私はこれほどまでに嫌悪感を抱かなかったのだろうと思います。ただ、様々なシチュエーションで、襤褸を食卓と結ぶこと、はたまたそれを英語の本として出版される人がいることに憤りを感じて、少しでも抵抗するために、嫌な気持ちを飲み込んで何枚か写真にした次第です。

日本の前提が、その物語が、できるだけ形を変えずに伝わりますように。その結果として、刺し子や襤褸も、その原型をできるだけ留めたものも、他の自由な解釈と共に、一緒に伝わりますように。

そんな思いで今日も活動しています。

「刺し子の究極の到達地点、襤褸が流行になる中で」への2件のフィードバック

  1.  初めまして。
    私にとってボロは10年以上前に亡くなった祖母の思い出。また後半で出てきた草履は、民族無形文化財になった地元の獅子風流 ししふり(獅子舞)をやっている今は80歳になる父と、それを身近にいるために継承している息子たちの暮らしの風景に当たり前にあるもの。
    亡くなった祖母の針仕事は小さい時からそれをみて、真似てをした私の現在の仕事になりました。コロナ禍で依頼が減ったり成り手が少なく廃れそうな獅子ふりも、今は当たり前にあるけれど、ふと消えるかもしれない。日本の文化のはかない美しさでしょうか。消えてなくなるかもしれないけれど。それは自分ももちろん。。
    たまに父に作業ズボンの膝を縫ってくれと頼まれます。私は靴下を継いでもらった。。
    そんなことを思い出させていただきました。
    ありがとうございます。 
     2023年3月11日

    1. はじめまして。
      素敵なコメント、ありがとうございます。
      文化は生きる私たちが選択をして決めるもので、「意固地になり争うこと」よりも「受け入れること」を優先する日本文化にとって、針仕事も、芸能(無形文化財)も消えてなくなってしまうものなのかもしれません。
      ただ同時に、私たちの記憶の中にある「それ」は物語であり、決して誰にも汚れさせていいものではありません(たとえそれが汚いような思い出でも)。
      刺し子を通して受け入れることを学びつつ、その上で何かを残そうと活動しています。
      私の文章が、少しでも美香様の記憶の点を繋ぐことができたのであれば、とても嬉しいです。記憶は思い出すことによって残せると思うので。

      こちらこそありがとうございます。

富樫美香 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください