大量生産大量消費から適量生産適量消費への一歩

久々に(というか、Sashi.Co & Keiko Futatsuyaを始めてからは初めてかも)、真面目な話をしてみようかと思います。

 

*あくまで淳の個人的な思いになります。文責は淳にあり、恵子さんは更新後に読んでるだけです。

 

 

私達、Sashi.Coは、基本的には「刺し子&古布が好きな人の集まり」であり、「常に拡大や成長を求める企業」でもなければ、「社会を変えるイノベーション(改革)を作るための活動」でもなく、ましてや「社会問題を解決するために設立された団体」でもありません。

 

単純に刺し子が好きで、使われなくなった古布を見る度に、(時に自分と重ね合わせて)「もう一度、世に出してやるからな」と気持ちを込めて刺し子をし、作品を作る、そんな一人の女性のプロジェクトであり、そんな一人の女性を応援し、手助けし、思いを形にしようとする多くの人の集まりが、Sashi.Coです。

 

そのSashi.Coから、英語にて刺し子と、その刺し子が持つ意味合いについて紹介しようと設立された会社(といっても一人会社です)が、淳が運営するUpcycle Stitches 合同会社です。近年の刺し子ブームの追い風もあって、設立間もない会社ですが、様々なお声がけを頂けていて、自分たちでも吃驚するような機会で、刺し子について語ることもあります。

 

刺し子について語る際には、刺し子について考えねばなりません。

自分たちが得意とする、また尊敬する刺し子とはどういったものなのか。その立ち位置の中で、話を聞いてくださっている方々の思いと共鳴したい。つまりは、質問に答えたいと思うのです。

 

ファッションによる資源汚染について

 

ニューヨーク州立ファッション工科大学(FIT)にて2時間ほどのお話をさせて頂いた時のことです。2時間のうちの半分以上が質疑応答だったのですが、そこでこんな質問がありました。

 

「大量生産によるファッションがもたらしている環境(資源)汚染についてどう思いますか……?」

 

情けないことに、僕は質問の大きさに圧倒されてしまい、上手に返答を作ることができませんでした。正直な話、「僕が応えるにはは重すぎる課題だ……」と打ちのめされ、そして、僕がその社会問題にたいして答えを出せるほどのものは背負えていないと、正直な感想を述べた記憶があります。情けないけれど。

 

未来のファッションを担うFITの生徒さん達。

その生徒の皆様に刺し子の本質をご紹介するとても貴重な機会だったのに、僕は、「僕なりの刺し子」を紹介することしかできず、「知ってほしい刺し子」を紹介できずに終わってしまいました。その、「知ってほしい刺し子」とは、今ある社会の課題の解決策になりうる刺し子の側面のことです。

 

「刺し子が広まれば世界は平和」とは言いませんし、思っていません。

ただ、刺し子が持つある側面を活用する人が出てくると、社会の様々な社会問題が解決できるきっかけになるのかもしれないなとも思っています。作業療法、リハビリとしての刺し子だであり、瞑想効果のある精神を繕う意味合いでの刺し子であり、また、居場所を作る刺し子であり。その全てにおいて、刺し子はとても素晴らしいもので、針仕事を通した針仕事以上のなにかを提供できる可能性を秘めていると思うのです。

 

そして、それはある時に、問題提起と、その問題解決案の一つとして発展する可能性すらあると思うのです。

 

適量で良いじゃない

 

産業革命により手工芸で作られていたものが、機械(アセンブリ)での生産となり、”同じもの”を大量に作ることができるようになりました。資本主義も重なり、大量にものを作り、ひとつあたりのコストを下げ、それを世界中で販売、今の経済圏が完成をしました。

 

*民藝でも”同じもの”を分担制で作ることによって完成する美が見出されていますが、機械を通したものではない点で違いがあります。こちらについては別のブログ記事にて。

 

また、お金を動かして経済を回していく資本主義の中で、「新しく物を作り続けていくこと」は必須の条件となり、結果、大量に作ったものを大量に消費させることによって(大量に廃棄させる事によって)、私達は豊かな生活を手にしました。物質的な生活を豊かにする為のものは、大量生産によって生まれ、そして大量に消費し、廃棄することによって、継続ができています。実際、僕が今こうして文章をかいているパソコンにしても、大量消費&大量消費の仕組みがなければ、一般人である僕には手に入らないものだったのだと思うのです。

 

ただ、問題は、「それはいつまで続けることができるのか?」

ということです。

限りがある資源の課題もあります。ゴミとして廃棄される”必要のないもの”の課題もあります。リサイクルという解決策に伴う費用の問題もあれば、またリスクの課題もあります。代替品が見つかれば、この消費社会は永遠と続くのでしょうか?

 

持続可能社会(サステナビリティ)が叫ばれるようになって、もう10年ほど経ったでしょうか?社会(環境)問題に関心の高い人が活動をし、様々な無駄や汚染が見直されるようになっています。買い物の際のレジ袋なんて、とてもいい例です。僕自身、世捨て人ではなく、実際にたくさんの物質に囲まれていきていて、大量消費&大量生産の時代の恩恵を受けている一人なので、その全てをやめるというわけにはいきません。

 

ただ、衣食住の「衣」という意味合いにおいては、ファッションへの定義も含めて、「適量生産でいいんじゃねーの?」と思っています。一枚の布を大切に使いながら「衣」を楽しんでいく。シーズン毎にデザイナーが作る作品を着て、数回着て廃棄するのではなく、一生涯使い続けて、補強をし続けて、ずーっと残っていくという「衣」をファッションだと捉えることもできるのではないでしょうか?

 

「新しい価値観を提供する」というのが、勝手な僕なりのファッションの考え方です。流行を作る原点がファッションであり、また奇抜なアート系なものもファッションであり、そして衣服として日常で楽しめる服(後のファストファッション)もファッションだと思っています。

 

そこに、「布を大切にする」という価値観が入ってくることは、決して不思議じゃないし、そういう意味合いで日本の襤褸が世界的に認められている理由もわかる気がするのです。

 

課題は、「布を大切にする」という価値観が手動のファッションの場合、「お金を生み出さない可能性がある」ということです。「捨てずに自分で服を直して楽しみましょう!」だと、既存のアパレル業界は喜ばないはずです。服が売れないわけですから。服が売れなければ、業界が成り立ちません。一種の僕の社会実験として、「もう服買わないことにしました」と言ってますが、それは僕個人だから良いものの、ファッションとしては偏り過ぎだとも思うのです。

 

だから。

適量に作って、適量に消費する社会が同時に存在できればいいんじゃないかなと思っています。

 

適量=適当がいい

 

インターネットが普及し、コミュニケーションの形が変わり、ドラえもんが日々毎日いるような社会の中で、その進化のスピードにブレーキをかけてしまうようなことは言わないほうがいいのかもしれません。

イノベーションでもなく、改革でもない提案。

 

「いやまて、その服はもう少し使えるんじゃないかい?」

 

という問題提起は、やっぱり本質からはずれていると思うのです。

 

ただ。

このスピード溢れる世界の中で、もしかしたらおいていかれていってしまう人もいるのかもしれません。

常に情報の波に飲まれ、何が幸せかどうかもわからず、ひたすら他人と比べて、正しい答えを完璧に近い形で出すことが正義だという日々。目的を達成することが幸せに繋がる自己実現であり、自分を律して、日々の生産性を高め、様々な形で社会に貢献し、お金を稼ぎ、裕福でモノに囲まれたな生活を送る。銀行口座や個人の信用も含めて、数字がチカラを持ち、また数字が人を幸せにし、また格差を作る日々。

 

そんななか、針を持ち、糸を通し、今まで自分が着ていた服を補修し、また着る。完璧を求める針仕事ながら、一針が流れていくのを「傍観」しながら、完璧ではない自分すらも客観視し、受け入れ、人間は完璧になれないことを楽しむ。

 

どちらが正解か……という話ではなく、そういう生き方を楽しむ人間がいたって良いじゃない?という戯言です。

 

とても非生産的な生き方かもしれませんが、生産的になにかを消費していきていくことだけが生き方ではないはずです。適当に適量を消費する生き方を実際に形にすることで、なにかしらの想いを残せたらと思い、淳の社会的な実験の説明も含めて、ブログにしてみました。

 

 

配信でもなかなか上手に言葉にできない思いですが、少しでも共感の紐を共有できていたら幸いです。

 

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