6月4日。他界した親父の誕生日。偶然も重なったこの日に、「刺し子以外に何も気にすることがなかったら、ずーっと刺し子を楽しんでいられるのに」という、刺し子好きな方の夢を叶えるような企画をしてみました。「24時間刺し子をする」というものです。
結論から言うと、めちゃくちゃ苦しかったです。楽しいのは最初の10時間くらいで、その後は、眠気と空腹感で、「なんで刺し子をしなくちゃいけないんだ……?」という自問自答を繰り返した後半でした。(まぁ自業自得だし、止めちゃうこともできたわけなのですが。)それでも24時間、休憩時間を除いては運針を止めなかったこと。運針もう嫌だ……と思いながらも刺し子を語り、刺し子をし続けられたこと。とてもいい経験になりました。
普段も配信をしていますが、「刺し子を楽しいと思える数時間」で完結するようにしています。逆に言えば、「楽しくない」と感じたら、そこで配信は終了します。その3時間程度だった、「刺し子を楽しく行える時間」を大幅に振り切った24時間の中で、やはり沢山のことを考えました。振り返りました。そして、やっぱり刺し子から学び続けているなと思うのです。
そんな、「刺し子から学ぶ」ことを、この1週間、文章にしてみたいと思うのです。内容的には「刺し子とは何か」という核心に触れることもあるかと思いますが、決して何かを否定することを目的としているわけではないことをご了承下さい。
*刺し子とは何か……というトピックについては、一度纏めてみております。ご一読頂けたら幸いです。
優劣をつけたい訳ではない
人間活動において、「優劣をつけること」は、とても当たり前になりました。貴方の方が優れている。私達が正解(正義)だ。優劣をつけることで、「比べること」を可能にし、そして、優越感であり、また劣等感という感覚も当たり前のように日々抱えて生きています。
「刺し子を伝えたい!」とお話をする時、お話を聞いてくださる方の最初の期待として、「どんな完成された刺し子が見れるのだろう」という、刺し子の「お手本」としての優の形があります。ただ、この「優」を定義することは、同時にそれ以外を「劣」と分類化してしまうことになります。これを私はしたくない。刺し子を広めることによって、刺し子に優劣をつけたい訳ではないのです。
だからこその、「刺し子には(絶対的な)答えはない」という、強いメッセージがあります。日本各地に残っている刺し子。全てが正解で、全てが「優」なのです。当人が「私の能力はまだまだ劣っている」と思うのであれば、それはその方が努力をして上達すればいいだけの話です。当人以外の誰かが、「その刺し子は優だね、劣だね」というのは、私が目指す「刺し子を伝えること」ではない点をご了承下さい。
そりゃ、華やかな見た目の方が良いのです。針目も揃っていた方が良い。でも、それ以上に想像力を膨らませられるような刺し子を伝えていきたいと思っています。
結果よりも過程
もしかしたら、「現代の刺し子」において、私は異端児なのかもしれません。「誰よりも刺し子と向き合って生きてきた」という自負はありますが、だからといって、刺し子の権威になりたいわけでも、はたまた私が主張していることこそが刺し子の全てだと言いたいわけではありません。ただ、単純に、「刺し子が持つ”綺麗さ”以上の何か」を伝えたくて、伝えることで私が学びたくて、今も活動を続けているんだろうと思うのです。
現代の刺し子。きっと、刺し子と聞いて一番に思い浮かべるのが「花ふきん」なのではないでしょうか?一目刺し。古典柄。約33cm四方の真っ白なキャンバスに刺し子糸で描かれる模様は、とても綺麗で、人々を魅了します。様々な技巧を凝らし、あっと驚くような模様も出てきています。
同時に、美術館や古物商の業界で価値があるとされる「刺し子」は、襤褸の形をしていたり、はたまたありとあらゆるところに刺し子が施された野良着の様な形で、多くの方から称賛を受けています。
両方とも刺し子です。でも、その「現代において広く楽しまれている刺し子」と「襤褸や野良着のような、昔の人が作った刺し子」には、やっぱり違いがあると思うのです。昔の人が作った花ふきんが古物商の手によって世間に紹介されることは、あまりありません。同時に、現代において襤褸や野良着を作っている人も、(花ふきんを楽しんでいる方々と比較して)それほど多くはありません。
では、この違いはどこにあるのか。(決して、”違いを埋めなければいけない”と言っている訳ではないので、ご了承下さい。花ふきんは、それは一つの文化として素晴らしい形を作っていると思っています)。
この違いは、「刺し子の必要性」によって生まれてきます。極論ですが、現代において私たちは「刺し子をする必要」はないのです。「綺麗な(かっこいい)結果」を求めて運針をする。刺し子をする。これが現代の刺し子で、それは私達が作る作品も同じ話です。
仕方ないのです。豊かになったのだから、寧ろ喜ぶべきことで。その上で、実は「昔の刺し子」に一つだけ近づける方法があると思っています。それは、「過程」に意識を向けることです。喜怒哀楽、妬みや嫉妬、あるいは無我。刺し子は数時間単位では形になりません。数十時間、数百時間の上で形になる作品には念が込められ、目では判断できない「何か」を作り出すことができると思っています。
これが、「結果よりも過程の大切さを紹介したい」と私が繰り返しお伝えしている理由です。
繰り返しになりますが、花ふきんとしての刺し子との優劣を付けたいと思っている訳ではありません。なぜ、こう明文化したかというと、「もっと刺し子を知りたい」と思って頂けるきっかけを作れればと思っている為です。柳宗悦氏を中心とした民芸運動から、田中忠三郎氏のコレクションと調査、吉田英子先生による刺し子の復興、アミューズミュージアムでのBORO展示。「刺し子の原点はどこだったのか……」を学べる方法は沢山あるのです。
結果よりも過程に意識を向けるようになると、「刺し子はなんてシンプルなんだ」と思うようになります。だって、運針しているだけなので。しかしながら、その究極とも言える単純作業の中に、多くの学ぶべきものがあると思っています。6月4日の「1日中刺し子」配信を通して、沢山の学びがありました。24時間運針をしただけ学びがあったんだと思います。
普段の毎週二回の配信を聞いてくださっている方であれば、既知の事実かもしれません。それでも、なぜか私にとっては「新しい学び」のような感覚だったのです。学びの共有 – 続けます。