1. 手仕事の継続性と再現性 | 私達が望む形の刺し子

Sashi.Coの一人である私(淳)が、インスタグラムやYoutubeで刺し子の配信をするようになり、約半年が経ちました。

 

「刺し子の手元をお見せする」という極めて単純な思い付きから始まった刺し子配信なのですが、刺し子をしながら様々な質問に答えたり、自分自身を振り返りながら思いを言葉にすることによって、私自身の刺し子に対する向き合い方が、どんどんと確固たるものになっていっている気がします。言語化して、共有するのはとても大事だなぁと。しかも、推敲を経ないライブという状況において言語化される”思い”の、雑で不格好で、でも純粋なこと。

 

ただ取り留めもなく話しているライブの内容に、濾過されていない純粋な気持ちは存在するとして、その原石とも言える雑で不格好な言語化された思いを、最終的に推敲を経た文章にすることによって、「恵子と淳は何をしようとしているのか」という、根本的な気持ちと願いを、興味を持ってくれている皆様と共有できたらと思うのです。一回で完結させる自信はないので、それぞれテーマを区切りつつ、時間の許す限り、自分と日本語と、そして刺し子と向き合ってみようと思います。

【全ての文章の責任は淳にあります。恵子さん(母親)について書く時も、私の思いとご理解ください。】

 

 

 

文化は”残す”ものか、”残る”ものなのか

 

家業である”刺し子業”に、多感だった20代の全てを捧げてきた私にとって、「(手仕事&刺し子)文化は”残すもの”なのか、”残るもの”なのか」という命題への答えを出すことが、何よりもの戦いでした。日々の売り上げ、とても非効率的な生産過程、減っていく職人、十人十色のニーズに合わせられない時代遅れの感覚……。数字を見る度に、自分の能力を後回しにして、「刺し子は求められていないのではないか……」と、日々悩んでいました。

 

日本全国的にみても、刺し子を”ビジネス”として成り立たせている会社や組織は、数える程しかありません。

刺し子作家さんは各地にいらっしゃるし、刺し子を楽しんでいらっしゃる方はそれこそ沢山いらっしゃいます。

刺し子を楽しむ方のニーズに合わせたキットや刺し子糸を販売する商売は存在しているし、私達もその一部を担っていました。ただ、「あくまで手芸としての刺し子」だと、当時は捉えていたのです。手芸と、私達が行っていた刺し子には、とても大きな差があるのだと……。そして、私達の刺し子が日の目を見ないのであれば、それは世の中から必要されていないのではないか……と。

 

モラトリアム期特有の自己中心的な考えだと笑ってやって下さい。

でも、当時は本気で、「社会が私達を認めないのであれば、刺し子は結果的に”残らない”のではないか」と考えていました。とても驕った、そしてひねくれた考え方ですが、逆を言えば、それだけ自分たちの刺し子に自身があったのだと思います。「私達が刺し子を残すのだ」と本気で考えていましたから。(商売人である祖母からの影響は少なくないのです。)

 

「文化は残すもの」であるならば、私は人生を掛けてでも刺し子を残していきたい。

でも、その為には必要な資源も資金も人も、何もかも足りない。未来が見えない。であるならば公的な資金(補助金)を投入してでも守るべきじゃないか。それこそ財団法人にするべきじゃないか。文化は残すものであり、結果的に残ったものが文化になるのだ……。

 

改めて文章にすると、少し危ない感覚の考え方ですが、それが「守らなければいけないもの」を背負った時に、自然と湧き上がってくる感覚で、若さと私の性格を鑑みても、ある意味では正常な感覚だったと思います。崖っぷちに立った状態で、戦意喪失するような人間ではないので。

 

2013年に父親が亡くなり、

一度、刺し子との縁をすっぱり切り、

母親から、「もう一度刺し子と向き合いたい」と手助けの養成があり、

子供に恵まれ、子育てをしながら刺し子と向き合い、

 

そして今、

 

インターネットを通して、実際に刺し子をされている方々とお話をする中で、20代後半からの10年の間に、ガチガチに固まったものが少しずつ溶けていっているような気がします。私が配信で言うことは、基本的に一貫しているはずなのですが、少しズレが発生していると感じられた場合は、このガチガチに固まった氷塊の一部が溶けているものだと思います。

 

極論を言うと、上記の命題、「刺し子は残すものか、残るものか」という問いには答えがでました。

性格に言うと、「答えは出さなくていい」という答えが出ました。

 

刺し子は、「残すものでもあり、残るものでもある」と今は思っています。

 

 

刺し子における継続性と再現性

 

当たり前にインターネットで、国境も物理的距離も超えて繋がれる現代。

「刺し子作家」という枠を超えて、刺し子業を行う人が出てきてもなんら不思議ではない世の中になりました。それはそれで素晴らしいですし、刺し子が文化として新しい道を形成していく上で、「刺し子で生計を立てる人が増える」ことは望ましいことだと思います。

 

私はまだ、「刺し子職人」ではありません。

英語ではSashiko Artistと名乗っていますが、まだ職人と自分を呼べるだけの技術は伴っていません。

家業時代は、実際に刺し子をすることよりも、刺し子を使ってどのように「商売を成り立たせるか」に全精力を注いでいました。だからこそ……というか、培ったものは大きいというか、刺し子を使ってお金を稼ぐこと、また刺し子業として生計を立てていく事に関しては、第一線の経験と実績はあるかなと思っています。

 

刺し子(というか手仕事全般)における「事業化」にとって、切っても切れないキーワードが二つあります。このキーワードを無視すると、利益が出るところか、三日坊主で諦めざるを得なくなってしまう可能性が高いです。基本的に事業リスクは低い「手仕事の事業化」でも、キーワードを無視すると、負債まみれになってしまう可能性すらあります。

 

このキーワードを無視して成り立つのは、唯一、「天才」と呼ばれる人たちだけです。他の言葉を使えば、芸術家。

「刺し子=芸術」という定義が私の中ではまだ例外である以上、やはり一般的には、キーワードを無視した事業化はオススメできないし、私自身も徹底して除外しています。

 

そのキーワードが、「継続性」と「再現性」です。

 

「再現性」とはつまり、「類似した作品を作ることができるか?」ということです。完全に同じものじゃなくても大丈夫ですが、ヒトツの作品(商品)が世に出た後に、「一点ものですからこれでおしまいです」では、製造業としては管理費が高すぎて成り立ちません。日本で製造業をすることが、既に割高なコストが必要である以上、類似品を再現できることによって販売管理費を圧縮する必要がでてきます。

 

「継続性」とはつまり、「安定した品質の作品を半永久的に作り続けることができるかどうか」ということです。半永久的といっても永久的という訳ではなく、外部的要因(仕入先の安定度や職人の技術の確保、年齢等)と内部的要因(やる気が継続できるかどうか、資金的に継続は可能かどうか)、という様々な要素を考慮して、結果的に10年程度は続けられるものでないと、ビジネスとして成り立たせるのは困難なのです。

 

商品力(作品の質)、ブランド力(広告力=資金力)等、他にも仕事として成り立たせるのに必要な要素は沢山ありますが、刺し子(手仕事)という特殊な業界に限って考える時は、通常のビジネスにおいて考えるべきリストの前に、「継続性」と「再現性」に十分な時間を費やすべきだと考えています。逆を言えば、通常の製造業においては、「継続性」も「再現性」も当たり前なんですよね。継続できるが為に仕入れ先(下請け)があるわけで、また再現性があるから工場で大量生産ができるわけで。

 

 

この二つのキーワードを満たさないまま上手くいく手仕事業があるとすれば、誤解を恐れずに言うと、ビジネス的に歪みがあるのだと考えるのが自然です。

その歪みというのは、

  • 営業利益(ビジネスを通して得られる利益)以外の収入がある。補助金であったり、他の事業の収入であったり。手仕事が第一義ではない場合がある。
  • 誰かが辛い思いをしている構造である。(仕入先であったり、下請けであったり、誰かが損をして支えているビジネスだとこうなります)。

 

資本主義という経済社会の中では、多かれ少なかれ、上記の歪みは発生します。

その歪みを受け入れる覚悟をして、且つキーワードを念頭に入れれば、刺し子で商売がしていけるのだと思っています。

 

 

そんな歪みから一度脱却することができた私は、もう、20代後半からずーっと考え続けてきた「刺し子で商売をする」という考え方を捨てようと思っているのです。

私自身、今刺し子をしながら、それでも生活ができているのは、刺し子を通していない収入(妻の収入)があるからです。10人以上の従業員を抱え、毎月の支払いが沢山ある「当事者」であり続ければ、「刺し子で商売をするという考え方から脱却する」なんてことは思い付きもしなかったことでしょう。歪みを理解して、その歪みを利用して、きっと利益を出し続けていくことを正義として捉えていたのだと思います。それもそれで、ヒトツの正義ではあるので。

 

ただ、運良くその柵から抜け出す事ができた今、その「運」をくれた父親の為にも、やっぱり私は歪みがない所で刺し子を残していきたいなと思うのです。

「歪みがない所」とは、つまりは、「刺し子の本来の姿に愚直に向き合うこと」なのです。

 

 

(現代の)手仕事と資本主義の矛盾をどう乗り越えるか

 

本来、手仕事と資本主義の相性は悪くありません。

実際、産業革命において「機械化」が一般的になった後も、手仕事というのは大切な労働力のヒトツでした。金を持った資本家が、技術のある労働力を書い、更に資本を増やしていく……という資本主義の根本的な考え方は、手仕事においても論理を通すことは問題ないのです。

手仕事においても、「大量生産&大量消費」が当たり前の時代があり、日本国内で行われた民衆における大量生産と大量消費の遺産が、「民藝」だと私は理解しています。そして、刺し子も、その民藝運動で発見された、日本の手仕事のヒトツだと思っています。誰もができる仕事であり、無名の多数の日本人によって作られた作品(襤褸や刺し子)こそが美しく、生活の中にある美として、その価値を見出されていたのだと。運針のように、極めて単純な作業に膨大な、気の遠くなるような時間を費やして作り上げられる作品にこそ、美が宿るのだ……と。

(私がアホみたいに9ヶ月間、麻の葉柄にこだわっているのは、そういう意味合いもあるのです。)

 

「手仕事」と「資本主義」に矛盾が出てきたのは、現代のグローバル化とインターネットが出現してからです。

 

手仕事でモノを作る過程を無視し、「同じものができれば良い」という大量消費目的での生産業は、「誰がどうやって作るか」を無視して、ひたすら労働力の安い地域に製造の場を移しました。「作り手個人はわからないけれども、なんとなく、どこの誰かが作ったかはぼんやりと描けて感謝ができる」という製造業から、「どの国の誰が作ったかなんて気にしない」という経済が作られてしまったのです。その結果、「未成年の子供が違法に働かされた製造現場で作られた衣服を、先進国がファッションだとして喜んで着る」という、ファッションの根本すら歪んでしまう事例すら置きているのです。

 

どれだけ技術がある職人でも、自分の生活を成り立たせる為の賃金より下の報酬では仕事ができません。

グローバル化以前は、職人の集まりがあり、ある程度の賃金は保証されていましたし、その保証以下の賃金では誰も仕事を受けてくれませんでした。今は生活水準の違う「安価な経済圏」において、それが可能になってしまっているのです。効率化を測っても限界のある手仕事と、投資した資本に対するリターンを第一主義とすり資本主義の相性が悪くなっている大きな原因です。

 

 

また、インターネットによって、一般人と職人の間に存在した「一定の分野における尊敬の壁」も薄くなってきてしまっています。

「言ったもの勝ち」というか、お金と発信力がある資本家が注目を浴びるという現象も出てくると思います。「オリジナル」の考え方も曖昧になり、誰もが作家になれる時代になってきているのだと思います。お金があることによって、物事が前に進む現代、そこに手仕事をどうやってフィットさせていくのかは、「善意」と「思いやり」という(ある意味ではアヤフヤな)キーワードに頼ってしまうのかもしれません。

 

何がオリジナルかがわからない世界では、資本家は「注目を浴びるもの」にお金を投資します。なぜなら、注目を浴びれば浴びるほど、投資したお金は回収しやすいからです。当たり前の論理で、そこに、「実際に職人であるかどうか」は、大きな意味を持ちません。また、実際に「オリジナルであるかどうか」も、資本主義的な観点からみれば、それほど重要な項目ではないのです。

 

刺し子にも似たような現象は起きている気がしますし、実際にもっと顕著になってくると思います。

”想い”が針目に出やすい刺し子において、想いがこもっていない作品への価値は高くないので、まだ作家の存在価値は保たれていますが、ここに大きな資本が入り、「新しい刺し子の定義」が生まれてくると、もう作家として成り立たせていくのは難しい日がくるのかもしれません。それはきっと、日本国外で、日本人の知らない所で起こるような気がしているのです。

 

 

私は私なりに、手仕事と新しい資本主義の流れを作っていきたいと考えています。それが私のできる、刺し子への恩返しだと思うのです。

日本人的な刺し子を、これからもずっと継続して残していきたい。「もったいないというモノにたいする感謝」と「貧乏の中にある意地」を刺し子として残してきた先人たちの日々を、なんとか後世に伝えて行きたいと思うのです。何よりも、「針仕事が楽しいんだ」という事実は、100年後も、200年後も、人間が人間である限り、残って欲しいと思うのです。

 

この流れは、私一人では作れません。

「純粋に針仕事を楽しんでいる日本人」が沢山集まることによって、自然と作られる流れ、だと思っています。流れの中心は私じゃない可能性も高いですし、私自身、私が中心になろうとは思っていません。「刺し子を尊重している&純粋に楽しんでいる」人であれば、誰でも良いのです。

 

「刺し子を残すのは私だ」という考えから、「どこで、誰でも良いから、刺し子が残って欲しい」という考えに転換できたから辿り着いた願いです。

 

 

その流れが本流になれば、刺し子をすることによって生活ができる人も出てくると思います。私自身、いずれは刺し子で生計を立てられるようになればと思っています。ただ、目先の利益(明日食べるもの)を心配しなくて良い今、長期的に見て、「できるだけ歪みのない」流れを作れたらなと思っているのです。

 

半分社会実験みたいなものです(笑)人生を掛けた真面目な実験ですが。

オンラインで無料で様々な情報を公開しているのも、安価で技術を広めようとしているのも、全てはこの流れを作りたいが為です。オンラインで公開している情報は、既に図書館等で、「頭と足を使えば自分でたどり着ける」情報を公開しています。既存の市場を壊す目的ではないので、無駄に敵を作らないことだけ気をつけて。

 

この流れが本流になった時に、初めて「刺し子から芸術」という流れができ、そして初めて母親の天才度合いが世の中にでるのでは……と。

 

 

息子バカなのです。

天才の母親を持った息子の宿命です。天才が故に流れの中心にはなれませんが、でも天才が故に、きっと自由に刺し子を表現し続けてくれると思うのです。私ができるのは、論理的に今の流れを説明し、そしてできるだけ多くの「楽しい人」を巻き込んでいけたら……と。

 

 

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どれだけでも文章化できてしまうので、とりあえずここで一回まとめます。

次回のトピックは、こんな感じを考えています。読んでみたい淳の思い等があればコメント下さい!

 

モノの補修の時代から、ココロの補修の時代へ。

ファッションの根本についての思い

 

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