恵子さんとの企画から1年半。刺し子の運針会にご参加頂いた多くの方々のお力を借りて、一つの作品を作ることができました。仮名称ではありますが、「運針会NYCタペストリー」と名付けて、2021年の初夏に企画を始めました。
インスタグラムを始め、多くの方の目に触れる場所で刺し子を紹介し始めて以来、「刺し子は美術なのか?」という命題を常に抱えています。個人的には、「刺し子は(美術となることはできるけれど、本質は)美術ではない」と考えていて、その答えは今でも出ていません。英語で刺し子を紹介すると、ほぼ100%の方が「刺し子は美術だ」と仰います。刺し子の文化背景を調べようともせず、何も考えずに「刺し子は美術だ」と繰り返す人もいれば、私がなぜ刺し子は美術ではないと思っているかの物語を理解しつつも、その上で最大限の賛辞の意味で「(あなたたちの)刺し子は美術だ」とお褒めの言葉を頂くこともあります。
刺し子と美術(アート)。
これは刺し子を続ける私にとって、目を伏せることができないテーマになのです。これから先は分かりやすく、美術をアートと書き換えて文章を紡ぎます。少し乱暴かもしれませんが、美術とアートはこの文章では同義だとご理解下さい。
ふと恵子さんに聞いてみるのです。
「刺し子ってアートかなぁ?」「恵子さんにとってのアートって何?」
恵子さんからの返事は以下でした。
「皆さんのおかげで、作品が好きなように作れる事に感謝しています。何の決まりもなく、作れる事が嬉しいです」
質問の答えになっていない返事が恵子さんからきました(笑)。ま、そんなもんです。逆に恵子さんから的確な答えが来たら戸惑います。ただ、そこで立ち止まる訳にはいかずアートの定義を私なりに模索してみました。様々な解釈を読む中で、アートとは「作り手の哲学を反映するもの」という定義に出会いました。簡単に言うと、「作る人の気持ちが表われているもの」がアートなんだろうと。
ふと思ったのです。
この恵子さんの思いを「アート」と定義して、「刺し子からアートに派生するものとして」私達から紹介できないかと。なんでもかんでもアートになってしまう現代だからこそ、必死に考えて、祈りを込めて、多くの方と一緒に作る作品を、私達のアートとしてみる。
刺し子をアートと世界が認識するのなら、私達も挑戦してみようじゃないか。そして、挑戦するのであれば、運針会でご縁を頂いた皆様と一緒に作りたい。
いつか美術館に展示できることを最終的な目的として、英語での副題に「Bring Sashiko to the NYC as an Art Piece(刺し子をアート作品としてNYCに持っていく)」と名付け、できた作品がこちらです。
作り手の思いを言語化してみる
上記の腑に落ちたアートの定義、「アートは作り手の哲学を反映する」ものであれば、この作品は恵子さんの哲学を反映するものになるはずです。作品から伝わるものを感じてもらうことが一番大切だとは承知しつつも、作品制作の過程の中で交わした沢山の言葉をまとめて、恵子さんの作り手としての思いを言語化してみたいと思います。
恵子さんの刺し子に対しての思いは、大きく分けると2つあります。
- 布に対しての祈り。特に古布に向かい「もう一度、ステージ(表舞台)に立たせてやるからな」と言葉をかけながら作品を作り続けています。これは20年以上変わらない恵子さんの、古布に対する向き合い方です。
- ご縁を頂いた皆様への感謝。昔から「決まりやルール」には従わず刺し子作品を作り続ける恵子さんですが、頭に思い描く作品の刺し子の量から、一人で刺し子をするにはなかなか大変なものでした。運針会を通して頂いたご縁。皆様に刺し子をお願いすることにより、以前は思い描いても形にできなかったものが、好きなように思い描くままに作れることが何よりも嬉しいことなのです。
祈りと感謝。
ありふれた言葉ではありますが、これが私が思う、恵子さんの刺し子の哲学です。針目の正確さやデザインも重要です。可愛さも綺麗さも大事です。恵子さんが「商品」として刺し子を作る場合は、「欲しいと思ってもらえるものを作る」と言う、もっと単純な、でも的確な哲学が入ってきます。
ただ、恵子さんに「刺し子をアートとして作ってみようぜ!」と提案した時に出てきた言葉は、「祈りと感謝」なのです。これは大槌刺し子と共に作った七宝タペストリーの時も一緒で、結局の所、恵子さんの哲学というのはこの二つの言葉に集約されるんだろうと思っています。
哲学さえ言語化できれば、あとはその哲学を具現化する為に恵子さんが何を思うかを慮ればいい。比較的簡単に言語化できます。
作品に込める思い
35枚に区切った布をつなげて1枚のタペストリーにした今回の作品。使った布は、古布や襤褸のハギレを繋いで準備しています。裁断すらできない、本来であれば捨ててしまった方がいいような小さい布を1枚の布として繋げる。それを35枚作り、1枚ずつ刺し子をして頂き、その35枚を1枚に繋げる。本来は捨てるような小さい布切れだったものに、丁寧に針を通すことによって強さを加え、また方眼のない一目刺しも練習してもらえるような形にする。全ての過程において「無駄」を可能な限り省いた制作プロセスです。
一番最初に恵子さんが抱いたイメージは、「血の流れ=生きること」だったようです。コロナ禍において、「死」が普段よりもずっと近く感じられてしまった数年でした。感染を抑えるために「独り」を推奨され、その中でなんとか一緒に「生きて繋がる」ことを願いとしてイメージしたようです。制作する中で、そのイメージを上手く表現できるか不安だったとのことなのですが、青空の下で写真に納めた際、ようやく恵子さんがイメージしていた当初の躍動感を感じることができたとのことでした。
作品を見てみると、ふと疑問に思われることもあるかもしれません。
血の流れを表現しているのであれば、線と線は繋がっているべきじゃないかと。実際その通りだとは思うのですが、同時にお一人ずつに刺し子をしてもらう際に細やかな指示をお伝えするよりも、全体像すらお伝えしない段階で「好みで刺し子をして頂く」ことに重点を起きました。「繋がる」ということは、目に見えない繋がりも含めての「繋がり」だと考えています。明確に繋がることは大切です。同時に、見えない繋がりへの感謝も忘れてはならないという戒めの思いから「繋がっていない場所」は存在します。これは私が良くいう「日本人としての行間を読む力」をアートでも再現できないかと思った次第です。恵子さんの哲学に私の哲学を捩じ込んだ感じはするのですが、なんとか表現できているのではと願っています。
後ろ布には、贅沢に柿渋で染めた布を使っています。また表の刺し子も柿渋で染めた刺し子糸をふんだんに使っています。柿渋染め – 別名「太陽染め」とも言われていて、太陽の光を浴びると、色はもちろんのこと、質感も少しずつ変化していきます。
このブログの最初に「美術館に展示されることを最終目的に」とご紹介したので、少し矛盾に聞こえるかもしれませんが、このタペストリーにはできるだけ陽の光を浴びて欲しいと思っています。流れが血液の流れであり、それ以外の藍染や絣の古布との刺し子は肉体であり、このタペストリーが一つの「生き物」として存在していって欲しいという願いがあります。藍染めは使えば使うほど色が変化し、まるで生きているように感じられることができるのですが、タペストリーという性質上(使う用途としては展示することが一番多い)、太陽の光で時と共に、私等と一緒に、時を刻んで欲しいという願いで柿渋を選びました。
この作品は、この段階で「完成」ではありますが、「終わり」ではありません。タペストリーという性質上、どうしても二次元で見てしまうのですが、本質は三次元(目に見えないところ)にも存在すると伝えていけたらと思っています。
拡大するとお一人ずつの針目を感じることができます。
一針一針が、それぞれの皆様の手刺しです。
このような素敵な作品を作ることができましたこと、改めてご協力頂きました運針会の皆様に心より感謝を申し上げます。
さて。
ここからは私の仕事です。頑張ります。
素晴らしい!
恵子さんも刺し子された方も仕立てられた方も凄いですね
また色々提案されて刺し子の良さをアピールしてくださいね
楽しみにしています。
いつもありがとうございます!!
はい。変わらず刺し子を楽しみつつ、刺し子を紹介していけたらと思います。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。