刺し子を再定義

刺し子を再定義する

尊敬する刺し子の諸先輩方に直接お会いしてご挨拶もせず、これほどまでに傲慢に聞こえてしまう一言を書いてしまうことをお許し下さい。僕は「刺し子を再定義」してみたいのです。

これまで日本各地にいらっしゃる刺し子の諸先輩方にご挨拶をしたいと思いながらも、特殊な家業の柵(しがらみ)から、その一歩を踏み出すことができないまま米国に移住してしまいました。いつか、ゆっくりと日本への帰国が可能な時期がきたら、必ず日本全国にいらっしゃる刺し子をされている皆様に直接ご挨拶をしたいと思っています。大変なご無礼になるかもしれないことを承知の上で、その諸先輩方が何気なく実践されていらっしゃる日本の刺し子の変化を最小限にする為に、敢えて「刺し子を再定義する」動きをさせて頂ければと思っています。繰り返しにはなりますが、日本国内で日本人の方が行われている様々な形の刺し子の優劣をつけることが目的ではありません。また、各々の地方に残っている刺し子に対して「どの地方の刺し子が正解なのか」と定義することが目的でもありません。純粋な願いとしての「刺し子を刺し子足るものにする要素は何か」を整理し、また考察することが目的だとご理解頂ければ幸いです。


なんでもかんでも”刺し子”

刺し子の大前提として、「日常の中に存在する(した)針仕事」だと思っている為、刺し子には絶対的な正解もなければ間違いもないと理解しています。昔ながらの刺し子を伝承されている地域においては、その地域ならではの技術であったり守り事であったりというルールが存在しているのは承知しているのですが、その「ルール」を縦にして、「どの地域の刺し子が本物か」をこれまで(公の場で)争ってこなかったのも、刺し子の素晴らしさの一つ(刺し子らしさの一つ)として理解しています。僕は、そんな刺し子が好きなんです。

ここ数年、日本国外で「刺し子」という言葉がブームになっています。ブームになった理由を考察すると、大きく分けて3つの要素があると考えています。

  1. シンプルなデザイン(日本の幾何学模様)に魅了された人が多い
  2. ファーストファッション(季節ごとに使い捨てする衣文化)の対極として、モノを大切にする動きのキーワードとして
  3. 忙しい現代において、敢えて手仕事&針仕事をすることによる、瞑想的効果を求めた動きの一つとして

「刺し子」が多くの人に知られて、刺し子文化が残ることは大歓迎なのですが、同時に様々な「刺し子を楽しむ以外に目的がある人たち」もブームと一緒に大量に流入してきて、「なんでもかんでも刺し子」という吃驚するような現象も起きています。

上記の3つの要素毎に例を出すと

  1. シンプルなデザインが流行ったことにより、麻の葉柄等を「刺し子柄」と理解し、それを印刷したものを、「刺し子作品」として販売している。そして、多分、残念ながら、それが売れる。
  2. 「もったいない」というわかりやすいコンセプトと共に、補修すれば何でも刺し子というような作品が持て囃されている。(「勿体ない=モノを大切にする」という安直な理解も僕は好きではありません。これも説明がいるかと思いますが」
  3. 手仕事による瞑想効果を求めるが故に、「針仕事はゆっくりで(が)良い」という、刺し子の運針の技術の向上すらも否定するような考え方が広まってきている

中には極端な例もありますが、このまま刺し子を再定義せずに放置すると、「なんでもかんでも(お金になれば&注目を浴びれば)刺し子」という、文化背景を置き去りにした横文字の「Sashiko」ができてしまいそうで、嫌な気持ちになっています。なんとかしたいのです。


日本人が刺し子をわかっていればいいじゃないの?

上記のような日本文化を置き去りにしたブームが起こっている大きな理由の一つが、「日本人がこれまで刺し子について情報発信をしてきていない」という事が挙げられます。でも、これは仕方ないことなんです。というか、情報発信をしないほうが本当の意味で「刺し子らしい」のですから。

布を補強する刺し子も、その補強と補修から生まれる刺し子も、もともとは「恥」の文化だったと思っています。その後、様々な時代を経て、模様を作り出す刺し子としても伝統を積み重ねてきていますが、根本的には「恥」があり、「家族や近しい人達で楽しむもの」であり、また「女性的な慎ましやかさがある手仕事」としての地位を確立してきたように思うのです。

だからこそ、「日本の刺し子はこれだ!」と主張することそのものにズレが発生するし、ましてや海外に出て「刺し子はこれだ!」と主張するのは、なかなかにハードルが高かったように思います。(尊敬する吉田先生は海外での活動もされておりますが)。日本人が刺し子をわかっていればそれでいいじゃないと思う気持ちもありますし、そうアドバイスされたこともあります。重々承知していることです。でも、敢えて一歩踏み出します。

日本人とは不思議なもので、日本国外でのブームにはあまり感心を示しません。逆輸入された時に「おっ」と思うくらいのもので、どれだけ日本の文化が海外でブームになっていて、そのブームによって文化が塗り替えられてしまうような状況になっていても、「我が家は我が家、他は他」という考え方が強いのか、他人事として考えてしまう美学があるようです。お寿司が良い例でしょう。カリフォルニアロールはお寿司じゃないという人もいるとは思いますが、日本国外で生魚を使わない&酢飯を使わないお寿司は、お寿司として存在しています。日本人は、「まぁ、それはそれで」と比較的寛容に捉えられるのです。

僕はこの、「人様は人様」という日本文化が好きなのですが、こと刺し子に関しては、このまま沈黙を貫くのは良くないなぁと思った次第です。

何故良くないのか。お寿司には絶対的な「お寿司」が存在します。日本人が銀座のお寿司屋さんのカウンターに座って、カリフォルニアロールを出されたら違和感満載になるのが良い例で、日本のお寿司文化は、他から影響されないほどに文化として確立されているのです。では刺し子はどうか?他から影響されないほどに文化が確立しているとは思いません。なぜなら、「文化を確立しない(定義をしない)」ことによって美が保たれてきた手仕事だと思うからです。


「文化を定義しないことによって担保される美が刺し子なら、お前がやっていることは矛盾じゃないか」と指摘されることも承知の上です。それでも、これ以上、日本国外の未熟な針仕事に「”素晴らしい”刺し子」を名乗ってほしくないのです。「刺し子を再定義したい!」という厚顔無恥な願いを書く段階で、もう既に、刺し子らしさから一歩も二歩もはみ出してしまっているのですが、それを踏まえても無理にでも行動に移さねばと思ったのには理由と、そして動機があります。(以前のブログも合わせて一読頂けると幸いです)。

ちなみに、誰でも「刺し子」をすることはできるし、それがどれほど未熟な針仕事でも、等しく愛おしいし大切なものだと思っていることはご理解下さい。僕が今回の文章でお伝えしたいことは、「未熟な針仕事にも関わらず、刺し子の先生や刺し子アーティストとして、恥文化を無視したものを刺し子と呼んでいる現象に一石を投じたい」というものです。 #JapaneseSashiko というタグで日本の刺し子を再定義したい……とお願いした時に、多くの日本人の方から頂いた言葉が、「私なんかの作品で良ければ」とか、「私の刺し子を日本の刺し子とするのは烏滸がましいけれど」という、日本人的な「恥」の考え方でした。こういう考え方を持つ刺し子は、逆にどれだけ未熟でも(そういう人に限って未熟な人はいないけれど)、何よりも大切な日本の刺し子の一部だと思っています。繰り返しになりますが、今の日本国外のSashikoは厚顔無恥が主流になりつつあります。”目立てばいい。儲かればいい。刺し子を通して何者かになるんだ”。そんな刺し子ブームに疑問符を投げかけるのが、「刺し子を再定義する」何よりもの動機であり、日本で刺し子をされている皆様のご協力を頂いて、「刺し子は何をもって刺し子となるのか」を整理できたらと思っています。


刺し子を一層楽しめるように

刺し子を楽しむ優しく気遣いができる人にとって、”「刺し子を再定義する」ことにより、誰かを傷つけることはないのか?”という懸念は最もなことだと思っています。僕もそれは最重要懸念として気を配っていく所存です。

ただ、「日本の各地域の刺し子の優劣をつけることが目的ではない」こと、また「日本的な刺し子の考え方の整理をしたい」という2点から、日本国内で刺し子をされていらっしゃる方のご迷惑にはならないのでは……と思っています。逆に海外での刺し子の現状をお伝えすることになって吃驚させて(且つ嫌な思いをさせて)しまうことになるかもしれませんが、それはそれで「刺し子の再定義の必要性」を強調できることになるとは思っています。

では海外ではどうか?

こちらも、「刺し子を再定義すること」によって、「刺し子を楽しもうとしている人」を傷つけることはないと思います。どうしてそう思うのか、少し説明します。キーワードは、「恥ずかしさ」と「自己肯定」です。


恥と外聞と刺し子

日本人にとって、世間の目(恥と外聞)は、なかなか無視できない強迫観念のようなものだと思います。「ニューヨークで刺し子を教えている!」とこれ以上ない肩書を持ちつつも、「僕の刺し子はまだまだ」と、ある意味では嫌味に聞こえてしまう謙遜も、この恥と外聞から来ています。日本で刺し子をしていらっしゃる沢山の人が、「私は刺し子の先生(習得した人)よ!」と主張しないのは、相当の経験と実績、そして自信がないと恥ずかしくて先生を名乗れないからです。実際、僕が知っている(ご縁を頂いている)刺し子の先生は、刺し子とひたむきに向き合っていらっしゃる人ばかりだし、当たり前のように刺し子は上手です。「刺し子を始めてほんの少し、知識は本をかじった程度、針目も揃ってない」そんな状況で刺し子の先生を名乗る日本の方を僕は知りません。

でも、日本国外(特に米国)ではそれが普通です。許されるどころか、「称賛される」文化なのです。


Judge と Individualism

どこかで膨大な時間を使って、この「Judge」という言葉を紹介したいとは思っていますが、乱暴に日本語に訳すと「(各々の価値観に従って)裁く」という意味です。極端な例で言えば、我が子に向かって「お前はゲームばかりして情けない(You are so disappointing to me for playing so much video game)。」というのは、親から子に対するJudge(裁き)です。ゲームを悪とする価値観の親から子への一方的なJudgeです。家庭という躾が存在する状況では、ある程度のJudgeも必要かなと思うのですが、これが成人の個人間になると、ある意味ではタブーになります。「価値観の押し付け(で相手を裁くこと)」は、米国においてはやってはいけないことの一つなのです。それは、米国が人種の坩堝と言われる程の様々な文化を受け入れた(受け入れなければいけなかった)国だからだと思います。

極論ですが、例えば僕が、「あなたがしている針仕事は刺し子とは無縁のものだよ」と、ある刺し子の先生に伝えたとしても、物事は解決しません。個人主義が当たり前の米国では、「その人が刺し子と思ったものが刺し子(自分が正当化したものが正当)」という考えが、恥や外聞よりも先に来ます。恥ずかしくて沈黙を貫くより、未熟でも自分の正しさを主張する方を美学と捉える文化です。

これまた極論ですが、僕のワークショップに来てくれた方の中にも、「私は私の方法で刺し子をする」と運針を諦める方もいらっしゃいます。個人の選択こそが尊重されるべきものだ……という文化の土壌があるように思います。


上記、「物事は解決しません」と書きましたが、寧ろ状況は悪化することと思います。上記の極論の一例であれば、「あなたの針仕事は刺し子じゃない」と英語で指摘することになるとは思うのですが、それを見た他の「同文化」のひとが、「価値観を押し付けるとは何事だ!」と必死になって守ってくると思うのです。結果、 刺し子の文化がどこにあるかよりも、その個人の考えと行動そのものが優先されてしまうのです。(実際、似たような事を既に経験しています)。

では、全ての事柄において、(むちゃくちゃな理論でも)正当化することが正しいとされるのかと言われると、そうではありません。「定義」や「正解」が事前に提示されていれば、それに従わない個人主義は、当たり前のように否定されます。要は二元論(正義と悪)で判断される法治文化なのです。法が基準で、そのルールに照らし合わせて正義か悪かを分別します。

特にルールがない刺し子においては、「自由な解釈」が正義であり、「価値観の押し付け」が悪になる(可能性がある)のです。

もちろん、これは一般論で、そうじゃない米国文化の方も存在します。「刺し子の背景はなんだろう?」と一生懸命勉強していらっしゃる方もいるし、日本にきてまでその文化を吸収しようとされていらっしゃる方も沢山います。だからこそ、この「刺し子の再定義」は、日本国外の日本語以外で刺し子をしていらっしゃる方にも有益な事になるのではと思っています。決して、誰かを傷つけることにはならないだろうと、希望を抱いています。


例外としての、”米櫃に砂”

残念ながら、「誰も傷つけない!」とは断言できません。理由として、傷つくかもしれない日本国外で刺し子をされている人を想定できてしまうからです。それは、今現在、「刺し子という言葉を使ってお金儲けをしている人や(実際に刺し子をしない)刺し子の先生」というカテゴリーの人達です。

日本文化としての刺し子にスポットライトが当たるにつれ、「楽で簡単に誰でもできる」刺し子に、少々面倒くささが加わります。「ゆっくりどんな針目でも刺し子でOK」とし、「どんな糸でもどんな布でもいいから購入して!」という刺し子ビジネスに群がるの人に対しては、「米櫃に砂」状態になるかもしれません。

もっと言えば、おそらく古くから刺し子をしている人たちにとって、「柄は自分で移すもの(書くもの)」と教えられている人もいるでしょうから、その文化を紹介することで、「柄が印刷された布」を販売している人は打撃を受けるかもしれません。

ただ、正直な話をすると、僕は「刺し子を通して違うものを見ている人たち」を刺し子好きとは定義しません。「刺し子を長い間続ける人には邪な人がいない」と信じる理由に、邪な人は「刺し子のブームがなくなると、刺し子からいなくなる」からです。刺し子を通してお金儲けがしたい人は、ブームが去って人が少なくなれば刺し子から撤退するでしょう。刺し子を通して有名になりたい人は、有名になったらそこで刺し子をしなくなるかもしれないし、逆に有名になれないと判断したら、そこで刺し子から離れます。だから、米櫃に砂を巻いちゃってもいいかな……と思っています(笑)。


刺し子の好き嫌い

長文にお付き合い頂きありがとうございます。もうすぐ終わります。

長々と書いてきた上で、繰り返しになりますが、刺し子には「正解」も「間違い」もありませんし、その正解を定義することをするつもりもありません。寧ろ、正解を定義しちゃ駄目だとすら思っています。ただ、日本の刺し子とはどんなものなのかを整理して再定義したいだけなんです。

正解がない刺し子において、判断基準は「好きか嫌いか」になります。日本的な文化を持った方の、そして刺し子を長い間続けてこられた方の「好きか嫌いか」は、とてつもなく信頼できる十分な判断基準になると思っています。

勿論、極端な好みもあると思います。僕自身、刺し子における好き嫌いは激しいですから。なかには「花ふきん」が嫌いな人もいるかも知れないし、「襤褸」に嫌悪感を持つ人もいるでしょう。幾何学模様以外の刺し子を嫌う職人さんも実際いましたし。その好き嫌いをも飲み込んで「日本の刺し子」を紹介することで、日本の文化とは切り離されていない刺し子を再定義できるのではないかと思っています。願っています。そして、信じています。

昔の日本人から刺し子を受け取り、今の日本に生き、そして明日も刺し子を続けるだろう人の刺し子作品の画像が一つの場所に集まれば、それは既に「刺し子の再定義」になるんだろうと。これは僕一人でどうにかできるものではありませんし、自己満足でも駄目で、独りよがりになっちゃもっと駄目です。是非、皆様のご協力を頂けましたら幸いです。あなたの、好きな刺し子はどんな刺し子ですか?


【編集後記:僕好きな刺し子。嫌いな刺し子。】

好きな刺し子は幾何学模様です。あるいは神仏に祈りを捧げるような刺し子も大好きです。もっと言うと、刺し子をする人の息吹を感じられるような刺し子が大好きです。逆に、「自己主張(みてみて!)」というのが強すぎる刺し子はあまり好きではありません。その為か、だいたい日本国外のインスタグラムのアカウントにある刺し子は好きじゃないです(笑)

日本国外のアカウントの刺し子画像をみるには以下のタグを見るといいかもしれません。それは刺し子じゃないようなぁという画像が沢山含まれています。

#SashikoStitching (インスタグラム)


好きな刺し子 - 刺し子を再定義
自分の刺し子で恐縮ですが、好きな刺し子です。

恵子さんの作品で、素晴らしいとは思いつつ、まだ飲み込めていない作品です。なんていうか、アートっぽすぎる(笑)

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