ここ数ヶ月程、頭の中を巡っている言葉があります。それは、インスタグラム上でご縁を頂いた方の言葉でした。「”ふきん”に模様を刺しているのは、(本来の)刺し子ではない」といったようなコメント。これまで沢山の刺し子ふきんを作り、また大量に販売してきた一人としては、身がきゅっとなる言葉です。同時に、昔から、「◯◯は刺し子ではない!」という言葉はとても身近にありました。家業に関わって下さっていた方々は、頑固な方も勿論いて。そんな職人気質の諸先輩&先生方から似たようなお言葉を沢山耳にしてきました。そういった経験はから、こういったコメントにそれほど過剰に反応することもありません。「確かにそういうご意見もあるだろうなぁ」というのが素直な反応です。日常の中に存在した刺し子。形式がある非日常と違い、どんな当たり前も存在しうる日常だからこそ、様々な考え方があって然るべきなのです。
そんな刺し子への声をどう拾うか
不思議なもので、個人としては「そういうご意見は大切にしたい」と思いつつも、他の方々の反応も見てしまいます。何度かあった過去の刺し子ブームの中で、「刺し子=ふきん(花布巾)」という認識は世間一般に定着しているので、多くの方が、「えっ?ふきんは刺し子でしょう?ふきんが刺し子の定番と言っても良いでしょう?」という疑問を持たれると思います。これもまた、とても自然なことです。
様々な方々の様々な反応を見ながら、ふと付け加えられる「自由」という言葉が、「◯◯は刺し子ではない」という言葉と対比関係を自然と築いてしまい、頭の中で様々な考えや想いを巡らせるきっかけとなりました。今回のブログは、そんな堂々巡りの考えを走り書きにしたものです。
「伝統を大切にしながらも、自由を楽しみたい」というのは、とても素敵な考え方です。同時に、「大切にしながらも……」という言葉程に、実際に伝統に触れている人はどれだけいるかと疑問に思うこともあります。現代の刺し子を否定している訳ではありません。文化は形を変えてこその文化です。100年前と全く同じ形を継承しようとするのは「伝承」で、そのままであれば跡形もなくなってしまう可能性があるのも「伝承」です。文化は、「伝承」を礎にした「伝統」を重ねることで、100年先の未来も残るものになっていくのだと思っています。”刺し子ふきん(花布巾)”は、刺し子を現代の人でも気軽に楽しめるようにした、素晴らしい進化の段階の一つだと思います。だからこそ、「ふきんも刺し子だ!」と思うからこそ、諸先輩方の「◯◯は刺し子ではない」という言葉は、とてもとても貴重で、大切にしたいと思うのです。
「なぜ、ふきんは刺し子ではない」のか
自然な流れとして、”なぜ「ふきんは刺し子ではない」というコメントをされたのだろうか?”と疑問を持つかもしれません。不躾で言葉足らずになりがちなインターネット上のやり取りだと、「ふきんが刺し子ではないなら、何が刺し子なのですか?」と逆に聞き返してしまいたくなるかもしれません。
ただ、ここでは、「ふきんは刺し子ではない」という方の論理はそれほど重要ではありません。実際に刺し子にも人生にも経験をお持ちの方で、「ふきんは刺し子ではない」と思われるのであれば、それはもう絶対的に揺るがない真実なのです。文化は多数決で決まりますが、伝承は一人でも完結します。
「なぜ、ふきんは刺し子ではないのか?」という疑問に答えを出すことに意味はありません。なぜなら、そこには答えしかないからです(間違いが存在し得ないから)。ここで意味があるのは、実際にそう思い、またその気持ちをわざわざ共有して下さる先人の方がいる……という事実です。
僕自身、このブログは誰かの代弁をしている訳でもなく、依頼されて書いているわけでもありません。「なぜ、ふきんは刺し子ではないのか」という答えは知り得ないし、ご本人と論議を交わす予定もありません。思いを馳せることで精一杯で、だからこそ、実際の声から学びたい気持ちがいっぱいなのです。
少し纏めます。「なぜ、ふきんは刺し子ではないのか」という疑問に思いを馳せることによって、「刺し子とは何か」という本質的な質問も一緒に考えることができるじゃないかと思うのです。「(刺し子ふきんは)みんなやってるし、大手の手芸点も宣伝してるし、ふきんが刺し子じゃないなんてあり得ない」というのが大多数の反応だとは思いますが、そこで思考を停止しないことで、伝承が伝統となり、また自由な刺し子としての伝統に繋がっていくのではないかな……と。
どれだけ不条理に思えても、経験と智慧が豊富な先人の方々の言葉には、沢山の「きっかけ」が詰まっています。個人的な好み云々という小さな世界ではなく、「言葉の裏にある物語」が存在します。「ふきんは刺し子ではない」という言葉の裏には、数え切れない&覚えきれない程の物語があるはずなんです。その物語に思いを馳せてこそ、伝統を重んじることに繋がるのでは無いでしょうか?
伝え方ではなく、受け取り方。
文章が好きな僕は、昔から、「どうすれば上手に文章で本意を伝えることができるかどうか」をずっと考えてきました。一つの答えが、「文章を無駄なく”長く”する」ということなのですが、現代において、「伝え方」というのは、とても重要な技術になります。「◯◯は刺し子ではない」という否定から入る伝え方は、決して効率が良い上手な伝え方だとは言えません。伝統的な本来の刺し子を学んで欲しいと思うのであれば、伝え方もしっかり勉強すべきだ……!と、つい最近まで思っていました。
でも、今は違う考えを持っています。
伝統や工芸、民藝等、昔ながらの方々からの智慧に頼る部分が多い文化を語る場合、「伝え手に伝え方を考えてもらう」のではなく、「受け取り手が伝え方の意図を上手に汲み取る」必要があるんだろうと思うのです。人気や流行、あるいは多数決で正解か間違いかが決まってしまうと、先人の方々の声を拾い上げる仕組みがなくなってしまいます。「人気があるから、みんなやってるから良いじゃん!」という現在の価値基準における判断だけでは、何かを失ってしまうような気がするのです。
日本の職人さん、あるいは職人気質の人って、基本的に人に何かを自ら教えに行こうとはしません。誰かに教えに行こうとするくらいであれば、自分自身で完結(廃業含め)することを望んだりします。もちろん、教えを請いに来た人にはしっかり教える方が大多数だと思うのですが、同時に、「既に聞きたいことが決まっている人」には、笑顔で本質を”伝えない”厳しさがあるような気もしています。
もしかしたら、日本には「ふきんは刺し子じゃない」と思っている諸先輩方が沢山いらっしゃるのかもしれません。ただ、そういった声は、滅多にインターネット上では見受けらないし、ましては一般的に共有される声でもありません。なぜなら、ご高齢の方が多くてインターネットという価値観が身近にないことと、また、”わざわざ面倒をかけてまで、他人に教える必要はない”と、職人気質的な思いを持たれているからだと思っています。
実際、沢山の技術、智慧、そして伝統が、こういう「受け取り手の努力(能力)不足」で廃れてしまったのではないかと推測します。「廃れる文化なのであれば、現代には適していないのだから必要ない」と断定する方もいらっしゃるとは思うのですが、文化は一度廃れてしまうと再生にはとてつもない労力が必要になります。時に、再復興は不可能になってしまいます。だからこそ、まだギリギリ(?)間に合うかもしれないからこそ、諸先輩の方々の声はしっかりと受け止めたいと思うのです。それが現代に必要か不必要(だった)かを決めるのは、現代に生きる僕たちではなく、未来を生きる次の世代の人の役割だと思うので。
刺し子の翻訳ができる一人になれれば
なぜ僕がここまで話を広げられるかというと、ここに書いたことは全て僕が通ってきた道だからです。「◯◯は刺し子じゃない」と、僕がしている針仕事にダメ出しをされたことは一度や二度ではありません。気難しい職人さん的な方とも沢山の時間を一緒に過ごしてきました。免疫があるのかもしれません(笑)。
人間は否定をされると(されたと感じると)、防衛本能が働きます。特に、「否定されることに慣れていない」と、否定的なコメントを見た瞬間に敵と味方に区別してしまいます。「同じことをしている人」は味方になり、「その多数を否定する人」は敵となってしまい、その後の関係性というのは基本的に存在しないようになってしまいます。つまりは、そこで、関係が点と点になってしまい、本来結ばれるはず線として”残せない”ようになってしまうのです。これ、”もったいない”と思いませんか?僕はとてつもなくもったいないと思うからこそ、こうして文章にして、そして、「刺し子の世代を超えたコミュニケーションの翻訳者」にもなれればと思っています。「刺し子好きなお兄ちゃん」から、「刺し子を語れるおっさん」への進化の時なのかもしれません。
もう現代には殆どいらっしゃらないとは思うのですが、昔の人々にとって刺し子は「仕事」でした。手芸じゃなかった刺し子も存在します。楽しむ選択肢じゃなかったんです。その必ずしなければいけない仕事の中で楽しみをみつけたり、美しさを見出したりしていました。
地域にもよって特色がある刺し子。どの刺し子が良いか悪いかと決めたいわけではありません。どの刺し子も正解です。どの刺し子も、日本人が営んできた刺し子です。だからこそ、今の流行や多数派の常識で、どの刺し子も塗り潰したくないんです。
先人の方からお言葉を頂いた時は、一度飲み込んで見て下さい。伝え方が下手なんです(笑)これは僕の母親の恵子さんも一緒ですが、言葉足らずなんです。本当に吃驚するほど足りない。結果的に「攻撃している」と捉えられてしまうこともあるのですが、きっと攻撃だけではないはずなんです。少なくとも、受け取り手の捉え方で、その攻撃(っぽい言葉)すらも、勉強できる機会になります。
そうやって、伝承を残し、そして伝統として発展させて行けたらと願ってやみません。刺し子の先人の方々の声を、大切に丁寧に拾いながら。